2017.09.13
人間の懸命な様子こそが美しい。小劇場界を騒然とさせる才能が追い求める、苛烈な美意識。【あやめ十八番 堀越涼】

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- 艶やかで繊細な和の世界
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- 生演奏が紡ぎ出す至高の劇空間
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- 緻密で多層的なストーリーテリング
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- 実力派揃いの出演者陣
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- 目で愉しめる華やかな美術や衣装
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- 作品ごとに変幻自在する作風
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家の中が「王国」だった。ブロック遊びが育んだ創造力と空想癖。
堀越涼は、千葉県香取市(旧佐原市)の団子屋の長男坊として生まれた。由緒正しき神宮の参道に軒を構えるその団子屋は、開業は祖母の代。三代目の堀越は、年の離れた姉からは弟というより息子のように可愛がられ、従業員からは「坊ちゃん」と呼ばれて育った。
「そんなところで蝶よ花よと育てられたのもあって、父親とキャッチボールをするとか、そういった男の子らしいことをあまりやってこなかったんですね。好きだったのは、レゴブロックやテレビゲーム。家の中は、自分が『坊ちゃん』としていられる空間。そこで自分の『王国』を築き上げ、その中で不自由なく暮らしている時間がいちばん幸せでした」
その頃から堀越特有の独創性は光っている。通常、レコブロックという製品はシリーズごとに幽霊城や宇宙船などつくるものがあらかじめ定められており、手順に従いそれを完成させることを目的としている。しかし、堀越のオリジナリティはそれでは飽き足らなかった。別々のパーツを組み合わせ、自分だけの家や乗り物をつくるのが何より楽しかった。
「当時画期的だと思ったのは、クワガタですね。巨大クワガタのブロックというのがどこにも売っていなくて。だったら自分でつくろうと、黒くて薄いブロックだけを集めて、足が可動式のクワガタをつくったんです。これは大発明だと思いました。僕の中で革命だったんですね。このクワガタは世の中で僕だけのもの。そこからそのクワガタを主人公にしたオリジナルストーリーをあれこれ妄想していました」
空想癖が強いのも、昔から。毎晩、寝る前に頭の中で自分だけのストーリーを思い描いた。昨夜の続きを練り上げていくうちに、気づけば妄想は一大長編に。そんな逞しい想像力が、堀越涼のクリエイティビティの源泉となった。
演劇なら自分が一番になれるかもしれない。根拠なき自信を原動力に、猛進した俳優道。
演劇にのめりこむようになったのは、高校生になってから。正確に言えば、原点は中学2年のときの卒業生を送る会にある。生徒会副会長だった堀越は、出し物の演劇でオカマの悪魔役を演じ、爆笑をさらった。人前に立つ快感の虜になった堀越は迷うことなく演劇部の扉を叩いた。
「中学生ともなれば、自分より優秀な人間が世の中にいっぱいいることくらい何となくわかります。実際、クラスにも自分より人気もあって、スポーツもできるし勉強もできる子はいっぱいいた。でも、そんなチートな彼らも舞台の上で笑いをとったことはないはず。そこにある種の優越を感じたんです。しかも彼らは芸術の世界に興味はない。自分よりイケてるやつらは誰も入ってこないこの世界なら、僕でも一番になれるかもしれない。演劇をやろうと思った理由なんて、突きつめて言えばそんな邪な願望がきっかけだったかもしれません」
そうあけすけに当時の心境を説明する。まだ演劇という茫洋たる大海の浜辺で、ぴしゃぴしゃと水遊びをしていたような時期だ。その海がどれだけ深いか。どれだけ泳げば次の岸へ辿り着けるのか。そんなことは知るよしもない。あるのは「自分には向いている」という根拠のない自信だけ。それだけを頼りに、堀越は演劇にどっぷり漬かり、高校卒業と同時に東京へ。青山学院大学に進学した堀越は、俳優のみならず、劇作・演出にも興味を持つようになった。
が、そこでひとりの天才と出会ったことにより、その進路は大きく変わることとなる。それが、大学の同期であった柿喰う客の中屋敷法仁だった。才能が呼び合ったのだろうか。程なくふたりは意気投合。堀越は、旗揚げから柿喰う客に客演し、以降、しばらくほとんどの公演に出演した。
「中屋敷がすごい才能の持ち主であることは、出会ってすぐわかりました。実は彼から言われたんです。『お前は俳優の方が向いている。俺は演出家の方が向いている。だからお前は俳優をやれ。俺は演出家をやるから』って。その言葉を信じて僕は俳優に専念することにしました」
もっと上手くなりたかった。就職の道を捨て、花組芝居に入座。
名もない学生劇団だった柿喰う客はあっという間に人気劇団へと成長。それに付随して堀越涼の名も小劇場ファンの人口に膾炙することとなった。多くの級友が次々とリクルートスーツに袖を通す中、堀越は卒業後も演劇の道で生きていくことを決意。そのための生存戦略をひそかに練りはじめた。
「当時の小劇場界には曺成河(現:成河)さんという圧倒的な存在がいた。すごかったんですよ、成河さんの芝居は。成河さんの芝居を見て、小劇場の俳優にはパワーが必要なんだと実感した。でも僕には、そんな芝居はとてもできない。いっぱしの俳優として認められるには、違う方法を見つけるしかないと思ったんです」
そこで至った結論が、技巧派としての道だった。俳優としての確かな技術があれば、間違いなく武器になる。それも、他の俳優にはない「付加価値」というタグがつけば一層重宝されるだろう。堀越は自分だけの強力な「付加価値」を身につけるため、ある老舗劇団の門戸を叩いた。劇団の名は、花組芝居。男だけの「ネオかぶき」集団で、堀越は女形として腕を磨いていくことを決めた。
「僕が花組芝居に入ったのは、上手くなりたかったから。理由はそれだけです。それまでの僕の出演作は、学生劇団がほとんど。こういう言い方をすると失礼ですが、大学生は子どもと言えばまだ子ども。子ども同士で芝居をしていても上手くはならない。僕はしかるべき大人からしっかりとした指導を受けて、早く技術を身につけたかった。だから、花組芝居を選んだんです」
熟練の俳優が揃う花組芝居。中でも最も堀越が影響を受けたのが、座長の加納幸和だった。学生劇団が主戦場だった堀越にとって、加納幸和の芝居は初めて観た「プロの芝居」。花組芝居に入座した堀越は、座長の教えを一言も漏らすことなくメモし、その演技メソッドを忠実に守りぬいた。
「加納先生から教えてもらったことは、たくさんありすぎてもう説明しきれない。たとえば『感情というのはコップの中でついでいくもの。そこから、こぼれたものが台詞になるんだ。だから、こぼれないうちは喋るな』と先生はおっしゃいました。それは、今でも僕の演技の基本になっています。どうやったら俳優になれるか、そのイロハを教えてくれました」
褒められることがモチベーション。演劇をすることで、「選ばれている」という感覚を味わいたかった。
そう俳優としての歩みを振り返りながら、堀越は手のかかる子どもを扱うような顔で、自分自身について語りはじめた。
「20代前半までの僕は『褒められたい』と『上手くなりたい』、この2点がエネルギー。それさえあれば何でも良かった。『お金を稼ぎたい』なんて一切思っていなくて。ただ褒められることと上手くなることのためだけに日々を生きていました」
それ以外の生活はもうムチャクチャでしたね、と困ったように堀越は笑う。「今話していることは、僕にとってまったくプラスイメージになることじゃないんですけど」――そう前置きをして、なぜそれだけ演劇にのめりこんだのか、源泉にある想いをこう説明した。
「どこかで中学時代のイケていた彼らにはできないことをやってるんだって自負心もあった。演劇こそが自分の特殊性なんだと、自分は選ばれているんだと、そんな選民意識のようなものを信じて演劇を続けるという時期がしばらくありました。当時はまだ今ほどSNSも普及していない時代。だから、自分がどう評価されているのか、感想に飢えていた。拠り所になるのは、1枚のアンケート用紙。そこに自分は何と書かれているのか。1枚のアンケート用紙を読むためだけに演劇を続けていたんです。就職もせず、ただそれだけのために」
承認欲求の塊のような若かりし頃。そんな青臭い時期のことを、堀越は「『我が、我が』という少年のようだった」と表現する。そんな未熟で不遜な少年が、青年の道に足を踏み入れたのは、花組芝居に入ってから。女形をやりはじめたことで、堀越は自らの演技基礎を根底から覆された。
「それまでの僕は自信の塊のような男。でも、女形にそんなものは必要なかった。なぜなら、女形とは男役をいかに輝かせるか、そのために存在しているから。自分を前面に出すような芝居は一切求められなかったんです。そこで、僕の考え方が全部変わりました。と言うか、変わらざるを得なかった。初めて美しいと思ったんです、自分のためではなく相手のために芝居をするということが。自尊心まる出しの、青年とも呼べない少年が、少しずつ青年になっていた時期ですね、女形をやっていた頃は」
この不幸を昇華できるポジションに就きたい。親しい身内の死が、眠っていた創作欲求を覚醒させた。
そしてもうひとつ転機が訪れる。真の俳優になるための修行を積んできた堀越が、28歳でついに劇作家・演出家としてのキャリアを歩みはじめたのだ。きっかけは、身内の不幸。親しくしていた親族を、堀越は亡くした。物言わぬ身体となって帰ってきた故人を、みんなが取り囲んで泣いている。その光景を目の当たりにした堀越は、唐突に「この光景を全部覚えておかないといけない仕事なんだ」という使命感のようなものに駆り立てられた。
「不思議ですよね。なぜかふっと我に返って、そんなことを思ったんです。そこから僕は悲しみも忘れて、つぶさに親族の様子を観察しはじめた。因果な商売です、大事な人の死をただ純粋に悲しむこともできないなんて。でも、だったらこの経験を絶対に何かに活かさなければいけないとも思った。だから僕は自分で書くことを決めたんです。俳優というのは、あくまで「待ち」の仕事。待っていれば、いつか死に関わる役をもらえるかもしれない。でも僕は来るかわからないチャンスをもう呑気に待つことなどできなかった。ならば、自分で書こうと。この身に降りかかった不幸を納得できる形で昇華できるポジションに就きたくて、僕は作・演出になったんです」
そうして、あやめ十八番は誕生した。これまで長篇の戯曲を書いたことは一度もなかった。自分に戯曲が書けるなど思ってもいなかった。けれど、いざ書いてみれば、自分でも不思議なほど面白い作品が書けた。次から次に新しい創作の種が芽吹いていった。
「僕は不器用な人間だと自覚しています。だから、いまだに自分がホンを書けるなんて思っていない。自分の書いた作品を観るたびに、いったい誰がこれを書いたんだと信じられない気持ちになるんですよ。だって自分のことは自分でよくわかっていますから。僕に中世ヨーロッパの言い回しを書けるセンスなんてないし、歌舞伎のような七五調の台詞を書ける教養もない。でも書き上がった本にはそれらがきちんと盛り込まれている。この台詞はどこから出てきたんだという驚きの繰り返しで今に至っているんです」
あやめ十八番のシンボル・下座音楽。その原体験は、幼少時代の祭り囃子。
だが、あくまで「天性のセンスで書いているわけではない」と否定する。創作の状態を一言で表すなら、むしろ「地獄の苦しみ」。
「半分狂ったようにブツブツうめきながらパソコンの前をウロウロしている。とても人様に見せられるようなものではありません。そのときに考えているのは次の台詞のことだけ。この状況で登場人物は次に何を話すのか。そこだけに集中して台詞を紡いでいきます。だからその場面が過ぎたら、何て書いたのか忘れるのかもしれない。基本的には脳内のアドリブのようなもの。僕の劇作はいつも行き当たりばったりです。非常に不安定で、ただし出来上がりは安定している。それはきっと、その台詞一行、台本一ページにあらゆる努力を注ぎこんでいるからだと思います」
そんな「地獄の苦しみ」から、いくつもの快作が生まれてきた。あやめ十八番は、そのたおやかな名前の通り、「和」を軸にした作品が中心。消えた深川芸者を主人公にした『ゲイシャパラソル』然り、実家である団子屋を題材にした『雑種 花月夜』然り。東京芸術劇場シアターウエストで上演した『霓裳羽衣』は、インドの神々をモチーフにしながらも、台詞は流麗な七五調で紡がれ、堀越涼の底なしのセンスがうかがえるスケール感ある作品となっていた。こうしたスタイルは、数多の劇団が乱立する東京の小劇場界でも異色と言って良い。その感性は何によって育まれたのだろうか。
「家から徒歩10分の場所に神社の本殿があったり、母が日本舞踊をしていたり、今思えば小さい頃からそうした和のものが身近にあったというのはあるんでしょうね。中でも好きだったのはお祭りです。僕の地元は山車祭りが有名で。毎年、その季節になると、お人形さんを乗せた山車を男たちが曳き廻すんです。山車には、笛を吹いたり太鼓を叩いたりする下座連たちも乗っていて。その下座音楽を聞くと血が沸騰するというかゾクゾクした。あやめ十八番で生演奏を入れるのは、こうした下座音楽の感じを出したいからなんです」
あやめ十八番が継続していけばそれでいい。承認欲求の塊が無欲になった理由。
今やあやめ十八番は、今後の演劇界を担う一翼として将来を嘱望されている。かつて承認欲求の塊だった堀越にとっては幸福極まりない状況だろう。さぞ野心的に今後の青写真を描いているのかと思ったら、堀越涼は拍子抜けするほど淡々とこの事態を受け止めていた。
「それこそ劇団員を増やしたときとかは、2年以内に売れなきゃ辞めるぞとか、いろいろ考えていましたけど、今はもっと無欲です。団体が継続していけばいいなあって、その気持ちしかないかもしれない」
唐突な無欲宣言。堀越は、自分の本心とフィットした単語を探るべく、何度も確かめながら言葉をつないだ。
「上手く言えないんです、今のあやめ十八番をどうしていきたいか、については。もちろん採算がとりたいとか、たくさんのお客さんに観てほしいとか、なくはないですけど。それよりも今はもっとシンプルです。誰かの人生を変える作品をつくってやろうとか、全然思わない。ただあやめ十八番がこれからも続いていくことだけが、今の望みなんです」
複雑な胸中の背景には、堀越自身の環境の変化も少なからず起因している。堀越は今年から拠点を地元に移し、演劇活動以外の時間はすべて家業の団子屋に注いでいる。蝶よ花よと育てられた「坊ちゃん」は、今、三代目としての道を本格的に歩みはじめたのだ。
「演劇活動は続けていきたいし、頑張っていきたいという想いはある。けど、わからないですね、今後のことは。少なくとも来年まではスケジュールも埋まっているし、演劇を続けていくけれど、その先がどうなっているかは僕にもわからない」
20代のときに思い描いた未来への地図を裏返し、もう一度、白紙の段階から堀越涼は自分の人生と幸福についてを見つめ直している。だからこそ、言えることはただひとつだけ。あやめ十八番がこれからも続いていけばいい、ただそれだけなのだ。
「昔はよその団体を羨ましがってばかりいました。あそこの団体みたいないいHPをつくってくれとか、どこそこの団体みたいに大きい劇場でやりたいとか、ね。でも大事なことはそうじゃないんだなってことに気づいた。今は、何だろう。公演を打つ、ということだけですね、頭の中にあるのは。すごい遡っちゃったけど、目標は公演を打ちたいというだけ。旗揚げレベルの感覚でいます、今は」
そうおかしそうに笑った。人生、生活、幸福、理想。演劇人は常にそうしたテーマと向き合うことを迫られる。堀越もまたその狭間で揺れながら、自分なりの答えを探っている、今はその途上なのだ。
僕が美しいと思うシーンは、どれもみんな登場人物はボロボロになっている。
そんな堀越を前にして、改めてどうしても聞いておきたいことがあった。あやめ十八番の世界には、確固たる美意識によって構築されている。衣装や舞台美術、音楽、言葉、台詞、俳優たちの佇まい。あらゆるものに彼特有の美意識が行き渡っている。本来、創作集団というのはそうあるべきなのだが、それをなし得ている団体は多くない。その独特の美意識は、何から生まれているものなのか。堀越涼はいったい何に美しさを感じるのか。そう迫ると彼はじっくりと黙考して、こう答えた。
「人間でしょうね」
堀越は、自分の出した答えを自分自身で答え合わせするように、言葉を付け足していく。
「人間の懸命な様子こそ、僕は美しいと思う。自分の手に負えないような大変な感情の渦の中にいる状態こそが、最も美しい。もしかしたらそれは僕の劇作の出発点が、身内の不幸という大変な状況にあったからかもしれません。素っ頓狂ですけど、人が追いつめられている状態に、僕の心は惹かれるんです」
そう語る彼の向こう側に、彼がこれまで生み出してきた登場人物が見えるようだった。
「こう振り返ってみると、僕がいちばん美しかったと思うシーンは、みんな登場人物はボロボロですね。そして、俳優は棒読みです。それでいいと思っています。俳優には『棒読みで言ってくれ』とオーダーします。『ただ大きい声で言ってくれ、それだけでいい』って。それが美しいと思うんですよね、とても」
不義密通の罰を受け、大岩の下敷きとなった色欲の女神。一時の情欲と引き換えに、死の病に恐れる愚かな中世貴族たち。ああ、確かに堀越涼の書くドラマは、容赦なく人を追いつめ、そこから生まれる阿鼻叫喚の声を、それこそ血液が沸騰するような音楽に変えて、観客へと届けてくれていたな、と思った。その絶望と高揚がカタルシスとなって、観客はあやめ十八番に組み伏されてしまう、抗う術もないままに。
堀越涼は、これから先のことはわからないと言った。誠実なのだろう。決して期待を持たせるようなことは口にしなかった。だからここから先の文章は、すべて僕の願望だ。
演劇界は、この人を失ってはならない。堀越涼は絶対に演劇を続けなければならない。演劇の神様は、彼の才能を愛したのだ。その愛に抵抗することなど誰も出来ない。そして何より単純な事実として、たくさんの観客が待っているのだ、これから彼がどんな作品を紡ぎ上げるのかを。
堀越涼の作品を甘受できるのは、劇場に通う者にのみ許された幸福な特権のひとつだ。
取材・文・撮影:横川良明 画像提供:堀越涼
My ゲキオシ!

花組芝居(はなぐみしばい)
花組芝居の面白さを知るには、実際に作品を観るより他ありません。男が女の役もやる、それも本格的な文学作品から、くだらないギャグまで、振り幅も限りなく広い。間違いなく一度観たらその面白さを理解していただけるはずです。
プロフィール

- 堀越 涼(ほりこし・りょう)
1984年7月1日生まれ。千葉県出身。青山学院大学在学中より、東京の小劇場で俳優として活動を開始。演劇研究会の同期であった中屋敷法仁主宰の柿喰う客に旗揚げから参加。客演として多数出演。2005年、『ゴクネコ』より花組芝居に研修生として参加。 2006年、『ザ・隅田川』より正式に入座。2008年には佐藤佐吉演劇祭でシルバーフォックス賞を受賞。2012年、個人ユニット・あやめ十八番を旗揚げ。作・演出を務める。

- あやめ十八番(あやめじゅうはちばん)
2012年、花組芝居の俳優・堀越涼が旗揚げ。歌舞伎、能、浄瑠璃など、様々な日本の古典芸能を基礎とし、古典のエッセンスを盗み現代劇の中に昇華することと、現代人の感覚で古典演劇を再構築することの、両面から創作活動を行っている。全ての作品で、日本人特有の感覚や美意識を作品作りのテーマとしている。また、歌舞伎の下座音楽や落語の囃子に影響を受け、劇中音楽が全て生演奏であることも特徴の一つ。第三回公演『江戸系 諏訪御寮』(小劇場 楽園にて上演)が、CoRich舞台芸術まつり!2014春で最終候補に選出される。第2回・第3回クォータースターコンテストで2年連続優秀賞受賞。『雑種 花月夜』で2016年度佐藤佐吉賞最優秀作品賞受賞。
2017年4月20日、僕は上演が終わったばかりの座・高円寺の客席で高揚していた。あやめ十八番『ダズリング=デビュタント』の本番2日目。今しがたすさまじい世界をつくり上げたその余韻だけをほのかに残して、無人の舞台に静かに時が降り積もる。人付き合いが得意ではない僕は、たとえ知り合いの舞台でも終演後に挨拶に行くことはない。それでもこのときだけは震える胸を何とか鎮めながら、一言感想を伝えるために楽屋口へ並んだ。それくらい衝撃的だったのだ、堀越涼のつくる作品は。
あやめ十八番主宰・堀越涼。かねてより俳優として高い評価を得てきた堀越は、今、その才気を爆発させようとしている。劇作家として、演出家として、底知れぬ可能性を秘めた新鋭は、果たしてこれからどの方角へ舵を切ろうとしているのか。羅針盤が示すその先を追った。