2016.11.17

演劇がなかったら、とっくに捕まっていると思う。小劇場界随一のならず者が、それでも演劇を続ける理由。【MCR 櫻井智也】

演劇がなかったら、とっくに捕まっていると思う。小劇場界随一のならず者が、それでも演劇を続ける理由。【MCR 櫻井智也】
  • 溢れる言葉の洪水度
  • 会話の巧みさ堪能度
  • 肩肘張らずに観劇度
  • そこはかとなく笑える度
  • 舞台狭しと動き回る度
  • 股間がムズムズする度

実は旗揚げから20年余のベテラン劇団。CoRich舞台芸術まつり!2009春でグランプリを受賞。その後も、数多くの優れた劇団に光を当ててきたMITAKA“Next”Selection 11thに選出、13年初頭には2012年度サンモールスタジオ最優秀団体賞を獲得するなど、その実力は小劇場界でも高く評価されてきた。しかし、当の本人は「ありがたいとは思うけど、みんなが何を評価してくれているのかはよくわからない」と周囲の賛辞もどこ吹く風。「認められたくて演劇をやっているわけでもない」とマイペースだ。
にもかかわらず、MCRは毎年本公演を2本以上という老舗らしからぬ活発さで公演を打ち続けている。いったいこの男はなぜ演劇を続けているのか。MCR主宰・櫻井智也の頭の中をほんの少し覗かせてもらった。

渋谷に行ったら血尿が出た。無頼の鎧に隠した卑屈な自意識。

東京・町田に生まれ、千葉の市川で育った少年・櫻井智也は、友達のいない子どもだった。卑屈で、自意識が強く、いつも人の顔色を窺って、周囲の望むような振る舞いを先回りして考える。自他共に認める「生きづらい」少年時代だった。

「一度ね、渋谷に遊びに行って血尿が出たことがあるんですよ。マックとか入っても、女子高生たちみんなが俺のことを笑ってるんじゃないかとか、あれこれ気になっちゃって。で、帰ったら血尿が出た(笑)。それくらい悪い意味で自意識が強かったんです」

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そう多感な思春期を思い返す。当時はよく今目の前に神様が現れたら何をお願いしようと、罪のない夢想に耽った。そんなとき、いつも頭に浮かぶのは、どんなモノマネも完璧にこなせる喉や、世界一速い足だった。「今思えば、そうやってクラスの人気者になりたかったんでしょうね」と櫻井はつぶやく。けれど、そんな切実な胸の内と相反するように、少年・櫻井は周囲と自分の間に埋められない決定的な差のようなものを感じていた。

「あるとき、ふっと気づいたんですよ。俺は自分のやりたいことをそのままやっちゃうと引かれるんだって。たとえばイタズラとかして盛り上がることってあるじゃないですか。そのとき、みんなが他愛もないのをやっているそばで、俺は牛乳瓶を車に全力で投げつけるみたいなのを面白がってやっちゃう人間。一線を超える衝動が楽しいというか、どうせやるならそこまでやらなきゃって思うんです。けど、まあそんなことすると大抵みんな引いちゃうわけで。だったら、あんまり自分を出さないでおこうって小学生の頃からずっと思っていました」

パンクに託した激情。その場しのぎのデマカセから演劇の道へ。

周囲に対する違和感。かと言って、何も選民意識に溺れていたわけではない。むしろ自分に特殊な才能がないことくらい自分がいちばんよく自覚していた。何者でもない自分に対する怒り。そんな鬱々とした衝動のはけ口となったのが、音楽だった。

「日本の初期パンクが好きだったんです。高校の頃はバンドブームで、みんながジュンスカ(JUN SKY WALKER(S))とかZIGGYとか聴いている中、ザ・スターリンとかINUとかをよく聴いてましたね。あの頃の俺は常にイライラしてて。その憤りとパンクに何か合うところがあったんだと思う」

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勉強も好きではなかった。将来にさしたる希望もなかった。大学に行く気にはなれないし、特別やりたいこともない。高校3年生のとき、三者面談で進路を問われた櫻井は、咄嗟に「ここに行きます」と専門学校ガイドの1ページ目の学校を指差した。すると、先生は「櫻井、お前、こういうことがやりたかったのか」と目を丸くした。無理もないだろう。櫻井が指差した先に載っていたのは、演劇系の専門学校だったのだから。

「そう言われて、自分でも“本当だあ…”って(笑)。別に演劇なんてまったくしたかったわけじゃないけど、まあとりあえずそこに行くことにしたんです」

20年来の「友達」・おがわじゅんやと北島広貴との出会い。

当然、進学後もやる気はゼロ。授業もろくに出なかった。しかし、ここでのある出会いが、後の櫻井の人生を大きく変えることとなる。それが、旗揚げ当初からの「友達」であるおがわじゅんやと北島広貴のふたりだった。

「入学したクラスにおがわさんと北島さんがいて。なぜかふたりとは最初から波長が合ったんですよね。何だろう。無理をしないでいられるというか。ずっと周囲に合わせて抑えてやってきたのに、ふたりの前ではいつも楽でいられたんです」

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そう言って、おかしそうにこんな思い出話を語りはじめた。

ある飲み会を終えてのこと。酔っ払った櫻井がふざけて路上でおがわにパイルドライバーを仕掛けた。これだけでも豪快だが、むしろ櫻井が印象的だったのはその直後のこと。必殺技を決めた櫻井めがけて、北島が自転車に乗って突進。倒れた櫻井のちょうど真上をまるでタイヤで直線を引くように北島が轢いていったのだ(!)。

芸人顔負けの体を張ったおふざけに、周囲はドン引き。しかし、3人だけがバカみたいに笑い転げていたという。ずっと自分の過激なノリについていける人がいない寂しさを感じていた。でもこの瞬間、初めて本気で一緒にバカをやってくれる人に出会えた。18で出会った3人は、以降、四半世紀にわたってふざけ合う最高の「友達」となった。

貧乏でいられる言い訳がほしい。それが、演劇を始めた理由だった。

20代の櫻井は、絵に描いたようなダメ人間だった。とにかく働くのが大嫌い。ひとつの組織に所属して、毎日判を押したように同じ時間に出勤するなど、考えるだけで億劫だった。

「専門学校を出て、ラーメン屋の雇われ店長をやってた時期があるんですよ。で、ある日、店に行こうと原付に乗ってたんですけど、まっすぐ突っ切らなきゃいけない道をどうしてもそのまま進めなくて。ハンドルを切って、気づいたら福島まで行ってたことがあるんです。そのとき、改めて痛感したんですよね、“ああ、俺はずっと同じところに通えないんだ…”って。普通のサラリーマンなんて言い方するけど、サラリーマンになるのもある種の才能が必要。それが俺には決定的に欠けているんだなって」

まともに働かないのだから、当然生活は困窮する。一時は、月200円で凌がなければならないこともあったと言う。あまりの空腹に耐えかねて、ファーストフード店の廃棄物を漁ったこともある。自分のだらしなさは重々承知しているが、さりとて社会に適合できるだけの耐性もない。だったらいっそ堂々と貧乏暮らしを送れる大義名分がほしかった。そこで思いついたのが、演劇をやることだったのだ。

「演劇やってたら、たとえ貧乏でも“演劇やってんだ”で言い訳できるじゃないですか。それで、北島さんとおがわさんたちと劇団を始めました。別に何かをなし遂げたかったわけでもないし、続ける気もなかった。強いて言うなら、自分の中にあるモヤモヤの発露の場所を探していたくらいでした」

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そうして、1994年、MCRが誕生した。作・演出は当時から櫻井本人。野望も向上心もない中での旗揚げだったが、初めて脚本を書き上げてみて、自分の中で大きな変化に気づいた。

「それまでの人生で最後までやり遂げた記憶ってのが一度もなかったんです。子どもの頃のプラモデルさえ飽きて途中で投げ出すような人間だった俺が、初めてやろうと決めたことを完遂できた。そのことが自分でも意外だったというか。公演を終えて、“あ、俺にも最後までできることがあるんだ”って思ったのをよく覚えています」

その感覚に、何か期するものがあったのだろうか。一度きりのはずだった演劇に、櫻井はのめりこんでいった。しかも、尋常ではないようなペースで。

「“俺はこれをやってるから”って言えるものができたことが大きかったんだと思います。そこからは年5~6本のペースで芝居をやっていました。と言っても劇団を大きくしていこうなんて気持ちは全然なくて。だから劇場を抑えるのも、いつも行き当たりばったり。適当に劇場に“来月空いてますか?”って電話して、平日1日でも空いてたらそこを抑えて公演を打つというようなサイクルをひたすら繰り返していました」

怒りを原動力にホンを書く。その苛立ちの最大要因は、結局普通な自分だった。

とにかく芝居ができれば良かった。芝居をやっていれば貧乏でも咎められないし、自分の中に渦巻く消化不良の憤りも発散することができた。だから、集客にも無頓着。友達にチケットを売りつけるようなこともしなかったし、旗揚げから7~8年目までは他劇団の公演にチラシを折りこむことさえしたことがなかった。売れることは、当時の櫻井にとって取るに足らないことだったのだ。好きな煙草を吸って酒を飲んで面白いことができれば、それでいい。実際、金銭感覚も常人には理解しがたいところがある。

「俺、Win5で618万円当たったことがあって。で、それを次のレースに全額ぶちこんだら、全部なくなっちゃった(笑)。この話をすると、“何で? もったいない!”って言われるんですけど、600万じゃ一生食っていけるわけでもないし、なら別にいいかなって思ったんですよね。あ、でもスッカラカンになった直後、煙草を買うために彼女から1万円を借りたときは、さすがにちょっと残しておいたら良かったかなとは思いましたけど(笑)」

そう話をする櫻井を見つめながら、「破天荒」という言葉が真っ先に浮かんだ。しかし、きっと当の本人は自分を破天荒だなんて思ってはいないだろう。むしろそこまで突き抜けられないことが、長年のコンプレックスだった。

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「学生の頃は俺は普通のやつじゃないんだってアイデンティティを持ちたい時期もありました。でも結局はどこにでもいる普通の人間なんですよね。Win5にしたって、618万円って金額がいかにも中途半端。そういう自分にずっとムカついていました」

その苛立ちこそが、劇作家としての動力炉だった。日々の鬱積する不満をエネルギーに変換し、櫻井はひたすら書き続けた。当時の公演の動員数は1ステージ10~15名程度。時には観客がひとりのときもあったと言う。長い長い潜伏期間だった。

「売れたいと思うようになったのは、30を過ぎてからかなあ。でもそれも別に評価してもらいたいとか、そういうわけじゃないんです。単純にこのままずっと一生演劇をやりたいなと思ったから。そのためには、ある程度売れておいた方がいい。だから売れたいなと考えるようになったんです」

口当たりはいいけど喉越しは悪い。観る者を虜にする櫻井ワールドの秘密。

櫻井智也の描く世界は、決してストレートではない。出てくる人たちは、ろくでもない人間が大半だ。くすぶっていたり、ひねくれていたり、言葉も悪しざまで、誰も素直に自分の気持ちを表現したりはしない。

それは、櫻井本人の性格に起因するところが多いのだろう。一時はヒモとして恋人に生活の面倒を見てもらっていた時期もある。そのだらしなさや身勝手さは、女性の敵だと眉をひそめられても仕方ないのかもしれない。

しかし、不思議なことに、きっと多くの女性はそんな櫻井を嫌いにはなれない。それどころか櫻井の描く物語にどうしようもなく共感してしまう。いわゆるイケメンなんてどこにも登場していないのに、劇中、一途に人を愛する姿にカッコいいとさえ思ってしまう。その筆力こそが、櫻井の最大の武器だ。

「自分にとって台本は好きな女の子へのラブレター代わりみたいなところがあるんですよ。やっぱり人が人を愛する姿がいちばん滑稽だし、いちばん美しい。だから男女の物語が自分にとっては書きやすいのかもしれない」

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これまで櫻井は、数多くの、まるで一筋縄ではいかない男女の物語を描いてきた。切れ味の鋭い笑いや、粗暴なキャラクターでコーティングされた表皮を剥けば、そこにあるのは極めて純度の高い愛だ。それはまるで好きな女の子についつい意地悪をしてしまう小学生の男の子のように、不器用で、ピュアで、いとおしい。

そう指摘すると、「基本的にはいい人なんですよ。そこにだらしなさだったり。人から見てどうなのって思われる部分があるから見えなくなっているだけで」と櫻井は笑って弁明した。

「俺の書く話は特別オリジナル性にあふれているわけじゃない。いわゆる普通の話しかできないです。ただその分、“わかるやつだけわかればいいんだ”ってのはやめようとはずっと思ってました。わけのわからないババアが来てもそれなりに面白かったって言えるものにしなくちゃいけないって。メロディはよくあるJ-POPなんだけど、よく聴いたら歌詞は初期パンに通じる毒々しさがあるというか。口当たりはいいけど喉越しは悪いものが書ければ、という気持ちはあります」

混沌としながらも無垢。野卑な生活の中に溢れる詩情。そんな二律背反する要素に惹かれ、観客はMCRの公演へと足を運ぶ。

面白くなりたいから、ひたすら書き続ける。櫻井智也を支える唯一の野心。

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「売れたい願望はなかったけど、唯一野心があるとすれば、面白くなりたいということだけ。たくさん公演を打っていたのも、面白くなるためには場数が必要だと思ったからです。今も自分で自分のホンが面白いかどうかはわからない。本番前はいつも怖いですよ。今度こそ愛想尽かされるんじゃねえかってビクビクしている。でもとにかく人にさらさないと上手くはならない。机の中にしまっている文章はいつまでも美しいんですよ。そこに人の目が入ると、いろいろ意見されたり批判されたり褒められたり、凸凹ができる。でもその凸凹からどう学んで何を活かすかが大事なんだと、ずっと考えています」

面白くなりたい。言葉にすればこれ以上なくシンプルだが、それこそが旗揚げから20余年を経てもなおMCRが精力的に活動し続けている理由のひとつなのかもしれない。

「俺、本当に演劇がなかったら捕まってると思うんです。演劇をやってて良かったなって思うのは、そこですね。あの頃から今もずっと自分を一般社会につなぎとめてくれるものなんですよ、演劇は。俺には演劇しかないから、たぶんこれがなくなったら本当にみんなが眉をひそめるようなやつになっちゃうと思う(笑)」

そう冗談めかしたが、恐らく本音だろう。ともすればアナーキーなパンクスに見えるが、分厚い革ジャンで覆った内側には、繊細で臆病な自分が今も暗い眼差しでひとり佇んでいる。だからこそ、櫻井の描く物語は、弱い者にどこまでも優しいのだ。
結成から22年。免罪符代わりだった演劇は、今、櫻井智也にとって自らのIDタグとなっている。

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取材・文・撮影:横川良明   画像提供:櫻井智也

My ゲキオシ!

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一見すると「こんなの俺でも書けるよ」って思うような何でもない話なんだけど、やってみたらなかなかできない。そんな話を書ける劇団だし、そんな演技ができる劇団だと思っています。家ではつくれない、お店じゃないと食べられない美味い料理を出してくれるような信頼感がありますね。

シンクロ少女

すごく頭がおかしい感じがするんですけど、それが面白いなと思います。何て言うんだろう。そこはかとなく漂う不真面目さが面白いのかな。これでしかできないっていう偏った人たちが集まっている感じが好きです。

プロフィール

櫻井 智也(さくらい・ともなり)

1973年6月20日生まれ。東京都生まれ。その後、千葉で育つ。MCRにおいてほぼ全作品の脚本・演出、出演する他、プロデュース ユニット・ドリルチョコレートの主宰も務める。その他、 外部舞台の脚本・演出やNHK、民放BS番組の構成・脚本、NHK FMラジオドラマの脚本、テレビドラマの脚本なども数多く手がける。平成24年度 文化庁芸術祭賞ラジオ部門にて優秀賞を受賞。(作品名『ヘブンズコール』脚本) 第二回市川森一脚本賞、『ただいま母さん』受賞候補作品に選出。最終2作品に残る。16年10月には、『相棒15』第3話「人生のお会計」の脚本を手がけ、好評を博した。

MCR(えむしーあーる)

1994年、脚本・演出の櫻井智也を中心として、 当時同じ演劇の専門学校に通っていた数人により結成。 コンスタントに年2~4本の本公演を重ねる。 また、本公演以外でも主宰櫻井智也によるプロデュースユニット・ドリルチョコレート公演、第13回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバルの最終予選会出場、お台場SHOW-GEKI城2年連続出場、各種企画公演への出演など多彩な活動を展開。それらを総合すると年に2~5本、計40余公演を上演している。信条は、「笑えることを笑えるように」「物語は些細な日常の中にこそ潜んでいる」。