2016.08.25
芸術と芸能の間を極める。演劇界の異端児が、今、本流を目指す理由。【子供鉅人 益山貴司】

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- 大阪仕込みの賑やかな笑い
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- シュールで幻想的な世界観
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- 舞台を彩るポップな美的感覚
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- 音楽ファンも満足の楽曲センス
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- 全員怪優!個性的すぎる劇団員
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- 幕切れと共に広がる温かな余韻
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陽気で冷淡な観察者・益山貴司が見てきた世界。
この人に直視されると、不意にたじろぐときがある。その分厚い眼鏡の奥に隠した小さな目は、笑っているようで、人を容赦なく裸にする。一見すれば陽気なパーティーピープル。だが、その眼差しには底知れぬ孤高がある。
「つい人を観察しちゃうところはあるかもしれませんね。今も横川さん(※筆者)の喋り方を聞きながら、こんな人なのかなって考えたり。友達とかも、ストレートに付き合うより、どこか観察対象にしている部分はあるかもしれないです」
そう言って、にやりと口元を緩めた。184cmの長身は、ただでさえ目立つ。豊かな髭とうねった髪型は、ひと目見て一般社会から逸脱した世捨て人の風情が漂う。それもそのはず。益山は社会からも、ましてや演劇界の掟や常識からも囚われることなく、今日まで我が道を歩んできた。
生まれは大阪・森之宮。このご時世には珍しい六人兄弟の長男として育った。近所の子どもたちとの遊びを取り仕切ることもあれば、家でひとり遊びをするのも好きだった。よく読んだのは、祖母の家にあった『十五少年漂流記』や『ドリトル先生』シリーズ。良質な児童文学が、益山の創造力の母となった。
「今思えば、その頃から自分の中に作・演のふたつの顔があったんでしょうね。みんなの遊びを仕切っているときの演出家としての自分と、ひとりで遊んでいるときの作家的な自分と」
幼い頃から好きだったのは、絵を描くこと。初めて物語を書いたのは、小学4年生のとき。内容は、勇者が魔王を倒す短編小説だ。以降、中学では友人と映画を撮るなど、物語をつくることに益山少年は没入していく。
「在日」であること。その血がもたらす激情と感性。
「私、在日なので」
自らの生い立ちを語る中、益山は何でもないようにそう切り出した。
「だからと言って差別を受けたわけじゃないんですけどね。地元はクラスの半分が韓国人のようなところだし、今もヘイトスピーチとかいろんな問題があるけど、それに対して民族の権利を守れとかまったく思わない。むしろそれを茶化す方が好きなくらいですから」
ただ、人格形成の面で、韓国人の血が影響していることはあると認める。益山は常々、「他人の芝居は観に行かない」と公言してはばからない。それは、他人がつくったものを観て、韓国人特有の気性の激しさが目を覚ましてしまうことを良しとしないからだと言う。
「気質としてはかなりエモーショナルですよ。女っぽいところもあれば、男っぽいところもあるし、静謐なところもあれば、激情型のところもある。自分の中でいろんな人格が内在してるんですよね。昔のインタビュー記事とか読んでも全然違うことを言ってたりするし(笑)。だから端的に自分のことは説明できないです」
この矛盾こそが、子供鉅人の対極性の所以だと答えを出すのは早計だろうか。毒々しいほど派手な配色ながら、ポップでファッショナブルな美術や衣裳。大阪特有のドギツい笑いを繰り出すその同じ口で、役者は福音のような美しい台詞を紡ぎ出す。
「色彩感覚で言うと、在日なので、チマチョゴリとか韓国の色遣いが無意識に影響しているところはあるかもしれないですね。大阪・鶴橋の韓国市場に行けば、色彩豊かなものがいっぱい並んでいる。大阪人だし、ああいうギラギラとした色合いは好きですね。台詞についてはポエティックに書く癖はあると思う。と言うのも、昔から西条八十や萩原朔太郎の詩集が好きで、よく読んでましたから。でも今はもうちょっと日常に寄り添うような、みんなが共感するような美しい言葉の方が興味はあります。一部の人しか理解できない難解なものよりも、大衆の人が憧れる美しいものつくる方がよっぽど洒脱だしイケてるし、それこそ難しいんじゃないかなって」
演劇はつまらないものだと思っていた。高校卒業から劇団旗揚げへ。
そんな益山が演劇と出会ったのは、高校2年生のとき。大阪市立工芸高校映像デザイン学科に進学し、アニメーション制作研究部でコマ撮りアニメをつくっていた益山は、クラスメイトの演劇部員から、「脚本を書かない?」と誘われ、演劇部に入部した。
「当時の演劇に対するイメージは、つまんなさそう。それまで自分が観てきたお芝居って説教臭い人権芝居か、小学校の出し物だけ。全然、興味はなかったですね」
そんな退屈な演劇のイメージを一新させたのが、顧問の先生から借りた夢の遊眠社のビデオだった。天才・野田秀樹のつくる世界に、「演劇ってもっと自由でいいんだ」と感銘を受けた。学科の特質上、美的感覚に優れた同級生にも恵まれ、益山は高校生ながらその感性と創造性を自由に舞台の上に広げていった。
「その子たちといろいろつくるのが楽しかったんで、卒業後、一緒に劇団を立ち上げました。大学にはね、実はちょっとだけ行ってるんです。でも、非常につまらないと思ってすぐ辞めて、親に“もう学費は払わないでいいから、その分、私にくれ”と頼みました。そのお金を元手につくったのが、BAR ポコペンです」
小劇場界とは仲良くない。長屋バーで築いた独自のコミュニティ。
それは、路地裏に佇む古い長屋バーだった。住居を兼ねたそのアングラな雰囲気が漂うバーには、ミュージシャンやアーティストなど陽気で洒落た同世代が好んで顔を出した。そこで酒を飲み、音楽を愛し、たまにライブや公演を打つ。そんな自由気ままな20代前半を益山は送った。掘っ立て小屋のような小さな劇場からスタートし、徐々にその公演規模を拡大させていくといった小劇場界の定石には興味が毛頭沸かなかった。
「今もそういうところがありますけど、基本的に演劇の人とは全然仲良くならないんですよね。維新派の松本雄吉さんとかカッコいい人もいたけれど、総じて小劇場って何かダサいじゃないですか。私も私でこういう性格だから人の作品を観てつまらないって言って舌禍事件を起こしたり、生意気だって言われたり(笑)。まあ、いろいろありました」
くゆる紫煙のように飄々と益山は話す。就職する気はまったくなかったが、さりとて不退転の覚悟で劇団を旗揚げしたわけでもない。ただ、他に何をしていいのかなど皆目見当もつかなかった。演劇をしているときと、店で酒を飲んでいるときだけが、益山に生きている実感をもたらした。
「当時のメンバーが就職するタイミングで劇団が自然消滅して、代わって新しくつくったのが子供鉅人。弟とか、バーのお客さんとか、身近にいる面白い人を集めてスタートさせました」
結成間もなくのヨーロッパツアー。そして迎えた「本流」への転機。
そんな再出発に、早くも転機が訪れる。ポコペンにやってきた客に紹介され、ベルギーのバンドと知り合った益山はすっかり意気投合。誘われるまま、ヨーロッパツアーへと繰り出した。もちろん自腹。まだ旗揚げ間もない劇団が海外公演に打って出るなど、関西小劇場界では前代未聞の珍事だった。
「本当どさまわりでしたね。ミュージシャンについていくわけですから、お客さんは誰も演劇を観ようなんて思ってもない人ばっかり。出ていったら、すぐ目の前に酔っ払いとかいるわけで。そんな中で観てもらうために、フィジカルな笑いに徹したり、いろいろ計算はしました。結局、ヨーロッパツアーは3回やりましたけど、すごい鍛えられたと思いますよ」
演劇で食べていこうなど、考えたこともない。あえて本流から身を置くように独自路線を貫いてきた益山の姿勢に変化が生まれたのは、ちょうど30代を迎えた頃から。抱える劇団員も20代半ばに差しかかった。主宰として彼ら彼女らの将来を考えたとき、この数年の間に役者として生計を立てられるようにするためには、このまま大阪で演劇を続けているわけにはいかないと悟ったのだ。
「もちろん自分の楽しみでやってた部分はありますけど、それにしたって私たちが青春にベットしてきたものに対するリターンがあまりにも少なすぎるな、と。生まれ育った大阪で食っていくんだっていう義侠心で作品をつくり続けてもいいけど、そんなの無理ですよ。東京のお客さんは大阪まで来ないし、批評家だって足を運ばない。東京というデカい餌場があるんなら、そこでやらなくちゃ。当時25~6歳の劇団員が脂の乗ってくる時期に仕事をとれるようにするためには、今、行かないといけないって、そういう気持ちがありました」
敢えて王道を狙った方がいい。今、劇団らしくあることの意義。
そうして子供鉅人は東京へ上陸した。以降の活動計画は実に計算的だ。初の東京公演は、裏原宿のフリースペース・VACANT。劇場にこだわらない子供鉅人らしいハイセンスな選択だった。しかし、本格的な東京進出となった14年以降は、結成10周年記念公演『愛の不毛と救済三部作』と銘打ち、演劇の聖地・下北沢を中心に3作連続公演を展開。王道とも言うべき小劇場で直球勝負に臨んだ。
「演劇界の中心に行くのか、外側で攻撃をかけるのかっていうのは、まあ悩んだわけですよ。最初は外側の選択をとったんですけど、よくよく演劇界を見渡してみると、プロデュース公演やユニットという形態が増えて、劇団というものが減ってきている。下北沢で公演をするところも減って、小さい劇場で芝居をする方がお金もかからないから、大きい劇場を目指す人も少なくなった。だったら、これは敢えて王道を狙った方が得じゃないかと思ったんですよ」
決して正統派でなかったはずの子供鉅人だが、今やその存在はむしろ実に演劇らしい。有無を言わせぬ破壊力で世間のルールを蹂躙していく破天荒っぷりは、かつてのアングラ劇団を彷彿とさせる。
「そもそもうちなんか毎公演バンバン赤字垂れ流しで、音楽劇をやったり、助成金もないのに九州公演をやったり、無茶なことばっかりしていきた。でも、そういう河原乞食的なことを今うちがしないで誰がするんだっていう勝手な使命感があるんですよね」
喜劇と悲劇のボーダーを超えて。世界をまるごと閉じこめるものをつくりたい。
そんな使命感のもと、突如本流へと舵を切った用意周到なギャンブラーが次に目指したのは、東京芸術劇場シアターイースト。人気劇団がこぞって公演を打つ王道で、異端児は関西ベストアクトで堂々の1位に選ばれた代表作『幕末スープレックス』を引っさげ真っ向勝負に出る。
「東京に出て2年経ちましたけど、今でも手応えはわからないです。子供鉅人という名前は知ってても、実際に観に来てもらうことはなかなか難しいですからね。小劇場界に限って言えば、どこどこの劇団の有名な人が出ているから行こうかなって、そういう動機でしかお客さんは動かない。だから一番の課題は子供鉅人のファンを増やすこと。そこにすごい注力してます」
劇団員だけで臨んだ前作『真夜中の虹』も最初は動員に苦労した。初日を前にチケットは伸びない。まったく動かない数字に肝を冷やしたが、初日が開ければ評判はあれよあれよという間に広まり、一気に劇場は満員の観客で溢れ返った。いいものをつくったからと言って、興行として成功するとは限らない。だが、いいものをつくれば、必ず反響は広まる。今、益山はそんなパラドックスの中で勝負の一手を探っている。
「ただはっきりしていることは、単純に面白くないと嫌だってことです。お金払って面白くないもの観せられてもつまらないし、単純に言えば笑えないと私は耐えられない。総合的なものをつくりたいんだと思います。悲劇もあれば喜劇もあるし、美しいものもあれば汚いものもある。世界をまるごとその中に閉じこめるような、そういうものを舞台の上に乗せたくて、芝居をつくっているんじゃないかな」
混沌も矛盾も愛し、飲みこみ、咀嚼し、吐き出す。その大らかで繊細な益山と世界との対峙が、子供鉅人を大衆的とも前衛的ともつかない不思議な集団にしている。
「芸術と芸能の真ん中を狙いたいというのは、かなり意図しています。簡単に言えば、面白くってためになるというのがいちばん好きですね。硬すぎても嫌だし、下品すぎてもつまらない。その真ん中をこれからもちゃんと狙っていこうというのはあります」
初の芸劇進出を終えれば、その後の子供鉅人はワクワクするような企画が目白押しだ。長らく演劇界の外側にいたトリックスターは今、本流を極めるということを、まるでシミュレーションゲームに興じるかのように、密やかに楽しんでいる。
正統と異端。この最大のアンビバレンツと、益山貴司は遊び続ける。その饗宴に、きっとこれからも多くの観客が魅了されていくことになるだろう。
取材・文:横川良明 画像提供:益山貴司
My ゲキオシ!

歌舞伎
お客様を楽しませる芸能の要素と、受け継がれていた芸術の要素が、すごく高いレベルで融合している。歌舞伎は最高のコンテンツだと思います。
NTL(ナショナル・シアター・ライヴ)
演劇界最高峰のロイヤル・ナショナル・シアターを映画館で楽しめるというもの。これを観ると、イギリスの役者のレベルの高さに圧倒されますね。イギリスの演劇は、大人の知的な娯楽になり得るところが素晴らしいですし、それが文化として根づいているところに尊敬を覚えます。
プロフィール

- 益山 貴司(ますやま・たかし)
1982年4月11日生まれ。大阪府出身。劇作家。演出家。俳優。大阪育ちの在日韓国人3世。6人兄弟の長男。高校時代より演劇活動を開始し、卒業後、本格的に劇団活動を始める。05年、劇団子供鉅人を結成。ほぼ全作の作・演出を務める。大阪では10年間 BARを経営し、様々なアーティストやミュージシャンなどと交流。14年より東京在住。 役者としての出演作に、NODAMAP『ザ・キャラクター』『南へ』『エッグ(再演)』などがある。

- 劇団子供鉅人(げきだんこどもきょじん)
2005年、益山貴司・寛司兄弟を中心に大阪で結成。劇団名は「子供のようで鉅人、鉅人のようで子供」 の略。関西タテノリ系のテンションと 骨太な物語の合わせ技イッポン劇団。団内公用語関西弁。人間存在のばかばかしさやもどかしさをシュールでファンタジックな設定で練り上げ、黒い笑いをまぶして焼き上げる。生バンドとの音楽劇から 4 畳半の会話劇までジャンルを幅広く横断。これまで フランス、ベルギーツアーを三度行い、現地にて「ダダ歌舞伎」と称される。14年に劇団ごと東京へ拠点を移し、駅前劇場、東京芸術劇場と順調に規模を拡大している。
演劇はアートか、エンターテイメントか。野暮は承知の上で、そうした二元論で劇団を分類してみたとき、今最もその中間を絶妙なバランスで走っているのが、彼らだろう。劇団子供鉅人――2005年、大阪で結成されたこの異形の道化師たちは、劇場という空間にこだわらず、自らがかつて経営していたBAR ポコペンをはじめ、映画館や倉庫、水上バスなど、様々な場所で物語を発掘してきた。
彼らの舞台は、混沌と無垢が賑やかに歌い踊るかのようだ。けばけばしいほどにカラフルな色彩感覚と猥雑でブラックな笑いにデコレートされたその箱のリボンを解くと、中から出てくるのは、美しい愛と希望の種。まさしく「子供鉅人」の名の通り、相反するいくつもの要素が星と星のように衝突を繰り広げながら、ひとつの大宇宙をつくり上げていく。
この独自の世界観は、どのようにして生まれたのか。その答えを知るために、主宰・益山貴司の人生を遡る。