2018.05.04
新しい代表作ができた。iaku 横山拓也に聞く『粛々と運針』にこめたもの。

今までのルールを取っ払いたい。iakuの本流を敢えて無視した実験が、名作を生んだ。
『粛々と運針』には6人の人物が登場する。
膵臓ガンの母から尊厳死を希望され、動揺する兄・一<はじめ> (尾方宣久)と次男・紘<つなぐ>(近藤フク)の2人兄弟。そして、予期せぬ妊娠の兆候に困惑する夫・應介<おうすけ> (市原文太郎)と妻・沙都子<さとこ> (伊藤えりこ)の夫婦。この2組に何ら接点はない。あくまで別次元に存在する人物として、2組の会話は進んでいく。
そこに何やら縫い物をしている結<ゆい> (佐藤幸子)と糸<いと> (橋爪未萠里)の語らいが挟み込まれることで、少しずつ全体像が浮かび上がってくるという構造だ。
iakuでは、とある屠場の休憩室だったり、豪雨に襲われた新興住宅地のリビングだったり、ひとつの空間に限定して物語を進行させるのが定石。横山の言葉を借りるなら、それが「ルール」だった。しかし、この『粛々と運針』は、一・紘兄弟の実家と、應介・沙都子夫婦のリビング、さらに結と糸のいる不思議な空間という3つの場が同時に存在し、交互に場面を転換することで、物語が進んでいく。iakuとしては異色の仕立てには、劇作家・横山拓也の好奇心と挑戦心があった。
「時間も場所も飛ばさず物語を進めるには、ある種のテクニックが必要。ずっと僕はそのやり方を楽しんでいたし、力の見せどころだとも思っていたんですね。でもその反面で、このルールに固執し続ける限り、本来の演劇の豊かさをハナから放棄していることになるんじゃないか、と疑問に思うようになって。ちょうど次に抑えたのが、新宿眼科画廊という普段の公演と比べてもずっと小さなギャラリースペース。ここならいつものルールを取っ払い、実験的なことができる気がしたんです」
そこで横山が描いたのは、死にゆく命と、生まれくる命、それぞれをめぐる議論だ。
「親の尊厳死にしても、子を持つ/持たないという話にしても、僕ら世代の共通のテーマ。だからこそ普遍的な問題として描いてみよう、と。これはいつものことですが、殊更テーマについて社会に強く訴えたいというわけではないんです。エンターテイメントとしての議論が成立するものをやろう、というのがiakuの狙い。今回もその出発点からスタートを切っています」
子どもを産みたいと思うことは自然なのか? 命の兆候の前で語られる妻の本音。
本作がこれだけ胸に果てしない共鳴を谺(こだま)させるのは、ひとえにその切実な台詞にある。特に白眉なのは、妊娠の予兆に気づきながらも産むことに対して抵抗を示す沙都子の台詞だ。一般的に、女性は生まれながら母性を持っているものだと言われがち。しかし一方で、必ずしも母となることが自分にとって「当たり前」と考えられない女性がいることは、決して異常でも悪でもない。だが、産まない選択を希望する女性への社会の視線は冷たく、偏見に満ちている。
「この戯曲を書く上で、いろんな人たちの話を聞きに取材に回ったんですね。その中で不思議に感じたのは、子を持たない選択をした人に対して、なぜ上の世代や既に子を持っている人たちは『後で後悔するよ』と決めてかかるのか、ということでした」
横山自身は妻も子どももいる。決して沙都子と立場が近いわけではない。だが、彼の書く沙都子の台詞には、まるで自分の内面を言い当てられているようなリアリティが息づいている。なぜ横山はこんなにも女性の心理を切々と描けるのか。その背景には、彼と同世代の女性たちの姿がある。
「僕の学生時代からの芝居仲間は、子どもを産んでいる人が多いんです。彼女たちはやれる範囲で演劇活動を続けながら、子どもを育てるという人生を選んだ。一方で、結婚や子どもを持つという選択を取らず、一線で演劇を続けている人たちも周りにいっぱいいる。そういった周囲の状況を見つめて、この世代ならではの感覚で、このテーマを徹底的に深く掘り下げてみたいという気持ちがありました」
沙都子は完璧主義の女性だ。会社では異例のスピードで課長代理に昇進。自慢の一軒家は、インテリアの細部にまで自分の趣味を貫き通した。だが、それも子どもを産んでしまうと、すべてが変わってしまう。キャリアは中断を余儀なくされるし、家には子ども向けの食器や玩具が溢れ返る。必死の想いで築き上げた理想的な生活をただ守りたいだけなのに、それを我儘と決めつける周囲の無理解に、沙都子は絶望を感じている。
「僕も子どもができた当初は家に子ども向けのキャラクターのものは置きたくないとかあったんですよ。でも子どもも人格を持っていますから、結局妖怪ウォッチやら何やらが生活に入りこんでくるのは当たり前のこと。未婚のときに考えていたことが通らなくなるという体験もいろいろしました。あの沙都子の言葉は、かつての僕の気持ちでもあるんですよね」
沙都子は言う――子どもいらんって言うたら言い訳をしているようにとるやろ、と。何とか翻意を促そうとする夫に対し「気持ちまで取り締まらんといて」と拒む沙都子に、観客の胸は締めつけられていく。
「僕自身はこれを書くとき、女性の意見から出発したんですね。やっぱり周りを見ていても女性の方が理不尽にいろいろと求められすぎている気がして。同窓会なんかに行ってみても、結婚や子どものことについて無神経な言われ方をされていた女性たちを何人も見てきた。だからこそ、そういった言葉にさらされる女性側の正当性を通したいという想いがありました」
父親になったら何者かになれる気がする。横山の描く現代的な男性像。
だが、一方で作家がどちらかの視点に肩入れしすぎると、議論としてのバランスを欠く。そこで際立ってくるのが夫の應介のキャラクターだ。應介は序盤こそ子どもを持たないという夫婦の生活に納得しているように見えた。家に子猫が迷い込んでいるかもしれないと相談を受けたときも、こともなげに殺処分の可能性を口にする。それが、父親になるかもしれないという未来が見えたとき、途端に変化が浮かんでくる。
「ファミレスで店長をしている應介は『仕事にプライドを持てない。そんな自分でも父親という役職を与えられたら、何者かになれる気がする』と、最終的には主夫になることを提案する。この應介の主張は非常に現代的だと思うんですよね。僕も同性だし、彼の言い分は非常によくわかります」
大企業で着々と出世を果たす妻に対し、夫はいつまでも安月給のまま。應介は、どこか世間から認められていないような引け目を感じていた。夫婦は産む/産まないについて真剣に話しはじめるが、議論は一向にして平行線のままだ。そこからこぼれる人間性に、この戯曲の妙味がある。
「できるだけ議論を引っ張るためには、双方のバランスが重要。出産を望む應介にしても、『俺の稼ぎで育てるから』と言い切れない弱さを持たせることで、主張が通りにくくしています。どっちも自分の正当性を主張しているけど、どっちにも弱みがあるというのは、『粛々と運針』に限らず、登場人物を書く上で意識していることのひとつですね」
女性に出産を求めるように、男は仕事で成功して一人前という価値観は厳然として存在している。古色蒼然とした社会に窮屈さを感じる應介にとって、父になることは最後の切り札だったのかもしれない。
「今は必ずしも男性が一人で家族を養う時代じゃない。そういう意味では、沙都子に対して保守的なことを押しつけているように見えて、應介の方が現代的なスタイルを選ぼうとしている。逆に、沙都子の方が自立もして自由に生きているようで、考え方は保守的。そのあたりが露呈するところはすごく人間味がありますよね。この夫婦に関しては、自分や近い世代の人たちの体験を色濃く反映できた分、説得力の強いものが描けました」
未熟な兄と成熟した弟。真逆の兄弟から透けて見える、母への執着と自立。
この夫婦の議論と同時進行するのが、一と絋の兄弟の会話だ。膵臓ガンを患った母には、ある男性の影があった。すでに夫を亡くした母が、新しく人生のパートナーを見つけることは決して咎められることではない。だが、精神年齢の幼い兄の一は、母の中にある女性の部分をどうしても認められず、尊厳死を希望する母の意向も「男にそそのかされたからだ」と言って聞かない。40代を迎えてなお実家住まいでコンビニバイトの兄と、妻を持ちサラリーマンとして堅実な生活を歩む弟。両者の対称性が、シリアスになりがちな題材にユーモラスな味わいをもたらす。
「あの兄弟の関係は僕と弟をイメージして書きました」
そう横山は創作の背景を解説しはじめた。
「弟は僕よりずっとしっかり者。ただ、わりと表現者一家みたいなところがあるうちの家系で、弟はあまり芸術や表現に興味がないタイプ。そんな弟に対して、親戚のおじさんが『弟には何もないんか』というようなことを言ったことがあるそうなんです。その一言が子どもの頃からずっと弟の中で引っかかっていた。弟がきちんとした就職の道を選んだのも、そんなコンプレックスを克服したいという部分があったと思う。僕の仕事についても、長年、否定的というか茶化してくるようなところはありましたね」
フリーター暮らしで安定収入を持たない一にしばしば絋は皮肉めいた言葉を投げかける。決して嫌い合ったり憎み合っているわけではない。近親ゆえに相容れぬ複雑な棘は、横山自身の生育歴が投影されていた。
そんな兄弟の関係性を示す上で秀逸なのは、キャッチコピーにもなっている「お前、いつからお母さんのこと「おふくろ」って呼んでんの」というフレーズだ。いくら同じ家に生まれ育ったと言えど、生活環境が変われば、どんどん人間は変わっていく。そんな兄弟独特の距離感が、この呼称に集約されていた。
「そこも僕と弟のエピソードが基になっていて。弟も、昔は『お兄ちゃん』だったのが、いつの間にか僕のことを『兄貴』と表現するようになっていたんですね。ただ、それも僕のいない場所での話であって、面と向かって『兄貴』とは呼んでこない。『お兄ちゃん』とも『兄貴』とも呼べなくなって、結局、弟は僕を呼ぶ言葉を喪失してしまったんですよ。こういった呼称のロストってすごく劇的。それを、母親の呼び方に置き換えてみたんです」
この兄弟を通じて浮き彫りにされるのは、中年ながらも、いまだに母親を母親という役割でしか見られない息子たちの葛藤だ。特に社会性が低い一は、自分の中でつくり上げた勝手な虚像に母親を押し込めがち。一方、既に自分の家庭も持つ弟の絋は、ある程度、距離をとって母親の人生を俯瞰しているように見える。
「収入も上で家庭もある絋は、精神的に優位な立場から兄を見ている。でもそんな絋が唯一コンプレックスを感じているのが、母からの愛情です。兄の方がより母親の愛情を受けているような気がして、余計に自分から母親に距離をつくってしまったところが絋にはあるんじゃないか、と。これは最初から意識していたというよりも、書き進めていくうちに期せずしてそういう棲み分けがされていった感じですね」
母親の件のみならず、弟の絋はあらゆる問題に対して聞き分けの良いところを見せる。良くも悪くも幼児的な兄に対し、分別のあるキャラクターだ。だが、そんな絋が息子の本心を覗かせる一言がある。
「兄に対し、弟は諭したり理解を示したりする役割を演じているんですけど、最後に『俺も、俺のお母さんなんだよ』と言う。あの台詞に、作者である僕自身も、この弟にとっても母は母なんだということを気づかされました。戯曲を書いていると、思いもしなかった登場人物の姿に自分自身が出会う瞬間がある。そこがやっぱり驚きであり、楽しいところですね」
誰をジャッジするつもりもない。4人の議論が強烈なシンパシーを呼ぶ理由。
夫、妻、兄、弟、父、母、息子、娘、独身、既婚。世の中には様々な記号的役割がある。この『粛々と運針』は、これらと向き合い、自分の人生を見つめ直した上で、それぞれの命の果たし方を模索する人間たちのドラマだ。私たちもまた、社会で、会社で、地域で、家庭で、何らかの役割を負わされ、粛々と演じている。悲鳴をあげたくなるような気持ちをぐっとこらえて。
だから、この『粛々と運針』にふれると、胸をかきむしられるような気持ちでいっぱいになるのかもしれない。ただ、しずしずと涙を流すしかないのかもしれない。
「たとえば出産ひとつとっても、僕は子どもを産まないことを選んだ人たちの人生を肯定したかったし、子どもがいる人生が幸せだと考えている人たちの意見も決して否定はしたくなかった。というよりも、何かそういったジャッジするような感覚自体、この作品を書く上では持っていなかったかもしれません。誰の言葉にもその人なりの正当性がある。それを僕が認めるとか受け入れるとか、そういう評価する気持ちは全然なかったんです」
私たちの多くは、日々正しい/正しくないのジャッジに晒されて生きている。自分で選んだ道さえ、誰かに責められているような後ろめたさが常に伴う。その中で一般論におもねることも、安易な着地で美談にすることもせず、兄弟と夫婦、それぞれの葛藤をそのまま舞台に乗せたからこそ、本作は観る人の胸をえぐる強烈なシンパシーを呼び寄せたのだ。
書き上げた瞬間に、これは何者かになる作品だと思った。
戯曲の構造で言えば、中盤、ある仕掛けがなされている。しかし、これについてはここでは言及しない。未見の方にもぜひ大いにその展開の妙を楽しんでほしい。
また、さらにここに結と糸という3組目の人物が折り重なることで、4人の議論にまた新たな視点からの眼差しが加わる。冒頭、淡々とした口調で、結と糸は近所に咲いていた桜並木の話をしている。その意図は、最初はわからない。だが、本作の主題を知ると、とりとめのない会話が一転して身のちぎれるような哀切で包まれる。
その他にも、夫婦の家のどこかに迷い込んだかもしれない猫のくだりや、語尾に「ぜ」とつけることにむず痒さを感じる兄の描写など、一見すれば何でもないような話題が、物語の暗示になっていたり、本人のキャラクターを語っていたり、戯曲として隙がない。その完成度の高さに、目の肥えた演劇ファンも唸り声をあげた。
「書き上げた瞬間に、これは何者かになる作品だと思った。そんな感覚になったのは久しぶりでしたね。少なくとも自分の中では、東京公演が始まるより前に、これは来年再演するだろうなという予感がありました」
横山拓也の代表作と言えば、これまでは『エダニク』が挙げられることが多かった。しかし、今後はこの『粛々と運針』が横山拓也の新たな名刺代わりとなるだろう。それだけのものを彼は書いたのだ。
「新しい代表作が書けた、という手応えはあります。今はとにかくこの作品を多くの人に見てほしいですね」
大人の鑑賞に耐え得る至高の作品集。横山拓也の真髄が、ここに。
この『粛々と運針』を筆頭に、4本の作品を携え、iaku作品集が上演される。交通事故に遭った同僚のお見舞い帰りにお茶をする女子たちの会話を描いた『人の気も知らないで』。原案となった岸田國士の『葉桜』と同時上演することで、現代の母娘の結婚観を浮き彫りにする『あたしら葉桜』。横山自ら「大きな出来事はないけど、終着点にカタルシスがある」と胸を張る『梨の礫の梨』。いずれも小粒だが、繰り返し何度も再演されてきた佳作ばかりだ。
「古い作品になればなるほど、読み返すのが恥ずかしかったり、もう上演したくないっていう気持ちになったりするもの。でも、この4本に関しては責任を持ってみなさんにお届けできる作品です」
2017年秋に上演した『ハイツブリが飛ぶのを』で第72回文化庁芸術祭演劇部門新人賞を受賞。この作品集と同時期に新作『首のないカマキリ』が俳優座で上演されるなど、横山拓也は今、最も脂の乗った劇作家として演劇界から注目を集めている。
「作家がやっちゃいけないのは、過去の成功体験を自己模倣すること。だから、『粛々と運針』が書けたことに引っ張られないようにはしたい。ただその一方で、ひとつの時間と場所で、というルールの中でやってきた頃とは違う自由さを手に入れた実感はあります。それはやっぱり『粛々と運針』しかり、その次の『ハイツブリが飛ぶのを』を経ての結果。これからも、1本1本、いい作品を書いていければ」
今年は計11本の戯曲が上演されるなど、文字通りの横山拓也イヤーだ。だが、そんな追い風に浮かれることもなく、ただ純粋に演劇に打ち込める現状を横山は楽しんでいるように見えた。充実のときを迎えた横山拓也の極致――2度目の『粛々と運針』が間もなく始まる。
取材・文・撮影:横川良明 画像提供: iaku

日程:2018年5月16日(水)~28日(月)
会場:こまばアゴラ劇場
『粛々と運針』
作・演出:横山拓也
出演:尾方宣久、近藤フク、市原文太郎、伊藤えりこ、佐藤幸子、橋爪未萠里
『人の気も知らないで』
作・演出:横山拓也
出演:吉川莉早、橋爪未萠里、海老瀬はな
『あたしら葉桜』『葉桜』同時上演
作:横山拓也(『あたしら葉桜』)、岸田國士(『葉桜』)
演出:上田一軒
出演:林英世、松原由希子
『梨の礫の梨』
作・演出:横山拓也
出演:宮川サキ、藤本陽子

日程:2018年5月18日(金)~6月3日(日)
会場:劇団俳優座 5F稽古場
脚本:横山拓也
演出:眞鍋卓嗣
出演:岩崎加根子、伊東達広、塩山誠司、清水直子、安藤みどり、志村史人、齋藤隆介、保亜美、小泉将臣、後藤佑里奈
プロフィール

- 横山 拓也(よこやま・たくや)
1977年1月21日生まれ。大阪府出身。劇作家、演出家、iaku代表。鋭い観察眼と綿密な取材を元に、人間や題材を多面的に捉える作劇を心がけている。他人の口論をエンタテインメントに仕上げるセリフ劇や、ある社会問題を架空の土地の文化や因習に置き換えて人間ドラマとして立ち上げる作品を発表している。「消耗しにくい演劇作品」を標榜し、全国各地で再演ツアーを精力的に実施。旗揚げ作品『人の気も知らないで』は4年連続で上演を重ね、10都市50ステージに及ぶ公演を行っている(2015年現在)。また、戯曲講座の講師としての実績も多数あり、関西ではもちろん、三重、金沢、福岡、札幌などでも戯曲講座を開催してきた。2017年、『ハイツブリが飛ぶのを』で第72回文化庁芸術祭演劇部門新人賞を受賞。日本劇作家協会会員(関西支部運営委員)。クオークの会所属。伊丹想流私塾5期生。

- iaku(いあく)
劇作家・横山拓也による演劇ユニット。横山のオリジナル作品を日本各地で発表していくこと、また各地域の演劇(作品および情報等)を関西に呼び込む橋渡し役になることを指針に、2012年から本格的に活動を開始。
作風は、アンタッチャブルな題材を小気味良い関西弁口語のセリフで描き、他人の議論・口論・口喧嘩を覗き見するような会話劇で、ストレートプレイの形態をとる。小さな座組でカフェやギャラリーなど場所を選ばずに全国を巡るミニマルなツアーと、関西屈指のスタッフ陣営を敷いて公共ホールなどを中心に組む大きなツアーを交互に実施。ほとんどの作品で上田一軒氏を演出に迎え、関西の優れた俳優を作品ごとに招くスタイルで公演を行う。繰り返しの上演が望まれる作品づくり、また、大人の鑑賞に耐え得るエンタテインメントとしての作品づくりを意識して活動中。
2017年6月2日、ひっそりと小さな作品が産声をあげた。それは耳を澄まさなければ聞き取れないほどかすかで、よほど演劇に関心のある観客でないと気づくことさえないように思えた。だが、その産声は、深く、熱い、波を起こした。作品の誕生に立ち会った幸運な人間たちの心を強く、優しく震わせた。
それが、iakuの『粛々と運針』初日の出来事である。大都会の片隅に佇む新宿眼科画廊の地下スペースは、あっという間に連日満員となり、大阪公演へ。SNSに熱い感想が広がる中、わずか2週間足らずで静かに幕を下ろした。見逃した演劇ファンからの再演を望む声を残して。
そんな珠玉の1本が、完全オリジナルキャストで再び上演される。しかも今回は東京公演のみならず、知立、仙台、福岡、札幌、相模原と巡演。1年前に初演したばかりの作品を携え、全国を巡るのも、作品に対する自信と評価の表れと言えるだろう。
再演を前に、今改めて聞いてみた。どうやってこんな作品が生まれたのか、と。脚本・演出の横山拓也は相変わらずの人の良い笑みを浮かべつつ、少し照れ臭そうに、けれど確かな手応えを持って、新たな代表作について語りはじめた。