2017.03.15

【演劇ライナーノーツ】ドラマでもなく、ポストドラマでもなく。【20歳の国 竜史】

【演劇ライナーノーツ】ドラマでもなく、ポストドラマでもなく。【20歳の国 竜史】

小劇場のお芝居は、稽古が始まるまでの間に台本ができていないことも少なくありません。だから、公演前のインタビューはどうしても雲を掴むような話になりがち。もっと深い話をしてみたくても、ネタバレだって気にしなきゃいけないし、書けること、書けないこと、たくさんあります。

この目で見て、この肌で感じて、心に残った1本について、じっくりクリエイターと話す場が持てれば。ということで、始めました、新企画。

これは、音楽の「ライナーノーツ」のようなもの。読みながら、ふっと劇場で観たあの一瞬が瞼に甦ったり、あるいは劇場で見えなかった何かが鮮やかに立ち上がってくれたら、いい。そしてもっと言えば、たとえ作品を観られなかった方が読んでも、心に焼きつく一行があれば、とてもいい。

第1回目は、2017年1月19日(木)~29日(日)まですみだパークスタジオ倉にて上演された、20歳の国『花園RED』『花園BLUE』について。主宰の竜史さんにうかがいました。

『花園RED』『花園BLUE』

年に一度のラグビーマッチ「闘球祭」を控えたとある高校生の3日間を切り取った青春群像劇。物語上、中核となる主役は存在せず、ラグビー部やバスケ部、演劇部、不良たちなど様々な視点からヒリヒリと焼けつくような心の揺れ動きが描かれる。

2013年1月、新春公演『花園』として王子小劇場にて初演。その年の王子小劇場佐藤佐吉賞・最優秀作品賞を受賞する。2015年、初演版『花園』を大幅改編した『花園Z 童貞ver.』、さらに不良グループを中心に描いた新作『花園Z 不良ver.』を2本同時上演。今回は『花園Z 童貞ver.』を『花園RED』、『花園Z 不良ver.』を『花園BLUE』と銘打ち、3度目の『花園』上演となった。

 

この『花園』という作品にふれるのは、これで2度目のことだった。前回、僕が観たのは、2015年の『花園Z 不良ver.』。正直に打ち明けよう。そのとき、僕はこの作品をあまり面白いとは思えなかったのだ。入れ替わり立ち替わり登場する15人の登場人物と、平坦な展開、消化不良のまま迎えるエンディングに、僕は何とも言えぬ物足りなさを抱えて客席を立った。

しかし、約2年の時を経て、邂逅を果たした『花園BLUE』は、モノクロなのにビビットというか、特段大きなドラマが起きるわけでもないのに強烈なコントラストをもって、僕の視界の前に立ち現れた。一言で言えば、単純に面白かったのだ。心が動かされたのだ、この鬱屈極まりない青春劇に。その証拠に、観終わってすぐ急いで『花園RED』のチケットを予約した。

聞けば台本を大きく変えたわけではないという。キャストこそ違えど、どちらも共に小劇場シーンで活躍する若手俳優が顔を揃えるという点でも同じ。受信するこちらのチューニングの問題もあるとはいえ、この印象の違いは何だかとても事件的だった。

だからこそ、まずはそこから話を進めてみたい。4年という決して長くはないスパンで3度に渡って上演されたこの『花園』はいったいなぜこんなに人を惹きつけるのか、ということを。

僕の台本は、あんまり面白くないと思う。

今日はよろしくお願いします。

お願いします。

今回、取材のお話をいただけたのは、とても嬉しかったんですよ。と言うのも、先に横川さん(※筆者)のnoteを読ませていただいていて、「実はこういうことを思ってほしかった」ってポイントを書いていただいていたので。

ありがとうございます。ぶっちゃけてお話をすると、前回の印象ってそんなに良くなかったんですよ。

基本的に、どんな小さな一歩でもいいから、劇中描かれる出来事を通じて、人が踏み出す、何か変わろうとする、そこにドラマや共感を覚えるのが、物語のベーシック。でも、『花園』っていろんな登場人物が描かれるけど、劇中で誰も成長したり変化するわけではない。かと言って、いわゆる「物語演劇」ではないのかと言えば、そういうことでもない。だから構造としては失敗なんじゃないか、と。

でも今回改めて観させていただいて、その「描かれなさ」にこそ胸を突き動かされました。このあたりの意図からまずはお話しいただけますか。

僕の台本って、語弊があるかもしれないですけど、あんまり面白くないんですよ。

それは読み物として?

読み物として。

俳優にも、初めて出る人に関してはいつも「本当にこれが面白いの?」って思われるところからのスタートですね(笑)。俳優って、やっぱり自分の役の感情とか、それをどう言いたいか、みたいなところを出発点に台本を読み解くので、そうすると僕の台本って面白くないんですよ、役の感情もわかりづらいですし、大きなドラマもあるわけではないですし。

でもそれは意図的なわけですよね。

そうですね。僕は演劇で何か伝えたいことがあるわけじゃないんです。ただ舞台上に「青春」という現象をつくり出したいだけであって。

作品を拝見しても、本当に3日間に起こった出来事をそのまま切り取っただけ、という手つきに潔さと覚悟を感じました。

たぶん2年前の僕はそこに消化不良感を持ったんだけど、2年経て演劇の自由さをより深く味わっていく中で、今の僕は「描かない」からこそ見えてくる人の変われなさに、どうしようもなく魅力を覚えた。そのあたりの劇作の信念をぜひうかがえれば。

今、演劇をやって売れようというか、多くの人に観てもらおうということを考えると、やっぱり現代のポストドラマの潮流を無視することは絶対できないと思うんですね。もちろんその潮流とはまた別の次元で演劇をつくっていらっしゃる方は大勢いますし、それはそれで演劇の形だと思いますが。

僕が個人的に到達したいと考えているのは、大衆に楽しんでもらうのと同じくらい玄人にも面白いと思ってもらえる作品をつくること。そうすると、やっぱりポストドラマの潮流は無視できないと思うんです。

■ポストドラマとは?
ドイツの演劇学者 ハンス=ティース・レーマンが1999年にドイツで出版した『Postdramatisches Theater(ポストドラマ演劇)』を通じて広めた現代演劇における表現ジャンルのひとつ。
その特徴として、「現実を模倣する劇世界、登場人物の葛藤が運ぶ筋立て、物語の進行に寄り添う演技や演出といった旧来のドラマの特色は、おおむね退けられ」「ドラマそれ自体はあっても、それを成立させるための要素や組み立ての方法は、もっと多様なものとして考えられている」(以上、カギ括弧内は引用)。
引用文献:平田 オリザ、相馬千秋、藤井 慎太郎 ほか(2016)『〈現代演劇〉のレッスン ―拡がる場、越える表現』フィルムアート社.

ただ、僕自身にポストドラマをつくる才能はないなという自覚もあります。それに、僕は面白く拝見していますが、いわゆるポストドラマを観て、観劇慣れしていないお客さんが「演劇ってちょっと難しいな」と離れていく現象もよくわかります。

だから、ポストドラマのように観客の想像に委ねる部分とエンターテイメント性の二つを両立させて、演劇界で特異な存在になることが僕の野望です。そういう最終到着地みたいなものをイメージしながら、いつも演劇をつくっています。

青春を「完結したもの」として描きたくない。

こういうことを言うとカッコつけた言い方しかできないのが日本語ってキツいんですけど(笑)、『花園』に限らず、僕は演劇を通じて、青春のほんの一瞬の刹那みたいなものをつくりたいんですね。

ポストドラマ全盛の、ドラマが終わったとされるこの時代で、それでもやっぱりドラマがやりたい気持ちが僕の中にはあって。じゃあ、何をしていけばいいのかと言うと、大事なのは自分たちなりの方法でドラマをアップデートすることなんだ、と。

物語のパッケージングはもう出尽くしていて、新しい物語なんてとうに尽き果てているけれど、もっとピッチを細かく刻めば、いくらでも新しいものをつくり出せるって確信はある。だから、僕はこれからも些細な物語を書いていきたいです。

青春モノと言えば、キラキラと眩しい作品か、イジメを題材に取り扱ったような陰湿で露悪的な作品の二極化が進んでいると思います。でも大抵の人は、この両方を経験していない人たちだと思うんですよね。だから僕は、そういう今まで描かれてこなかったその二極の真ん中にいる人々を描いていきたい気持ちがあります。

そのどちらにも属していない真ん中の人を描きたいっていうのは、竜史さん自身がかつてそのゾーンにいた人だから?

もちろんそれはありますけど、それが理由というよりは、それしかできないだろうなという方が近いかもしれないです。僕は初めて台本を書くとき、(平田)オリザさんの『演劇入門』を読んで勉強したんですけど、その中に「最初から自分とかけ離れたものを書くのは難しいから、まずは自分に合った何か書きたいものを書いた方がいい」というようなことが書かれていて、それが自分的にとてもしっくり来たんですよね。

あとは「想像力・記憶力・観察力のどれかひとつでも圧倒的に優れていれば、プロの劇作家として素晴らしい戯曲を書くことができる」というくだりも影響を受けました。じゃあそれって自分は何かなと言うと、オリザさんの意図に即しているかはわからないけど、自分なりには「記憶力」かなって。

高校生を題材に書いてみることにしたのも、高校が舞台なら今まで見てきたいろんな人のことを題材に使えると思ったから。だから、僕の書く登場人物は、今までの人生で出会った色々な人をモデルにしてますね。それはたとえ友達じゃなかったとしても。

逆に自分を投影することはない?

ほとんどないですね。自分はこのあたりの立ち位置だったかなってキャラクターならいますけど、別に自分の分身というわけではないですし。むしろどちらかと言うと、今回のラグビーにしてもそうなんですけど、元々ラグビー部だからこういう題材を選んだって誤解されることも多くて。どっちかと言うと、それがキツいです(笑)。

青春劇の場合、作家自身の私小説的な見方をされてしまうところはありますからね。それこそ身を削って書いているというような。

身を削って面白い人生ならいいんですけど、それほど面白くない人生なんで(笑)。軽く爪の皮くらいは入ってるかな、くらいです。

改めて聞いておきたいのですが、竜史さん自身はどんな高校生活だったんですか?

普通…ですかねえ。基本的には3年間バスケ一色でしたけど、別にキラキラしてたってわけではないし。彼女がいた時期もありましたけど、だからと言ってモテモテだったわけでもない。たぶん高校の同級生と当時のことを振り返っても、「あのときの竜史のあの話は笑ったなあ」というエピソードは一切出てこない(笑)。そういう感じの高校生活でした。

フライヤー含め、わりと熱量のある芝居なのかという印象を受けますが、実際に観るとまったく違いますもんね。むしろどちらかと言えば熱くはなれない、発火できないゆえの面白さを感じました。空転しているエンジンというか。

僕ら世代で言えば、ランニングシアターダッシュという団体があって、あれなんてまさしく熱血スポ根の代表格でしたが、『花園』はその括りにカテゴライズされるかと思いきや真逆でした。

それは僕が「青春」というものを、「完結したもの」としてつくりたくないからというのは大きいと思います。

僕、高校生が青春のピークみたいなのが嫌なんですよ。確かに人生はそんなに上手くはいかない。でも上手くはいかないけど上手くはいかないなりに超楽しい瞬間って、どんなに年をとっても絶対ある。だから、ただ単に青春をキラキラしたものとして描いたり、熱いものとして描くのは嫌なんです。

青春を今の自分とまったくかけはなれたものとして描きたくない。ちゃんとその延長に、今の自分がいるんだと感じられるものとして描きたい。それが僕の根本にある考えなんです。

多くの青春劇は、すでに青春を通過した大人たちのためにある、と僕は思う。過ぎ去った日々を美化して懐かしむ再生装置として、あるいはこうでありたかったという願望を映し出すスクリーンとして、青春劇は消費される。

しかし、竜史の描く青春劇は、そんな安易なノスタルジーを拒否しているように見えた。『花園』はいわゆる青春賛歌ではないし、青春劇を標榜し続ける20歳の国は決して甘ったるい追憶のための集団ではない。

「青春」という限定的な季節を生きる人間の、欲望とか、倦怠とか、卑屈とか、焦燥とか、そういう喜怒哀楽に整理される直前の何かが暴発するその一瞬だけをデッサンする。その克明な素描に、観る人の心は躍動を覚えるのだ。

ーーインタビューは、次回も続きます。どうぞお楽しみに。

取材・文・撮影:横川良明   画像提供:20歳の国

プロフィール

20歳の国(はたちのくに)

2012年、「モテたい、売れたい、ちやほやされたい」という大義の下、建国。「国王」竜史が全公演のプロデュース・作・演出を手がけ、2016年劇団化。誰もが避けて通る「王道」を敢えて進み、誰もが通ってきた「青春」を物語の中心に据えながら、人間の普遍性と人生のかけがえのなさを、時にダイナミックに、時に繊細に、描いている。2014年、MITAKA“Next”Selection 15th選出。『死ぬまでに一度でいいから、ロマンス・オン・ザ・ビーチ』を上演。

竜史(りゅうし)

1988年3月21日生まれ。 茨城県出身。O型。早稲田大学第二文学部卒。 20歳の国のすべてを司る「国王」であり、全作品の作・演出を担当。ほぼすべての公演に俳優としても出演。いまだに「売れたい、モテたい、ちやほやされたい」という青臭い夢を、全く捨てきれない。どころか、その気持ちは年々増幅の一途を辿っている。 チョコレートを好む。 2013年佐藤佐吉演劇賞・優秀脚本賞・優秀演出賞受賞。