2017.10.08

劇団を離れ、農業の道へ。すべてを放り出した男が再び「劇団で演劇をするのが楽しい」と言えるまでの6年間。【ゴジゲン 目次立樹】

劇団を離れ、農業の道へ。すべてを放り出した男が再び「劇団で演劇をするのが楽しい」と言えるまでの6年間。【ゴジゲン 目次立樹】

存在感のある大きな身体に、心地の良いバリトンボイス。ゴジゲンの舞台に出てるときはあまり気づかないのだけれど、面と向かって話してみると実は年齢以上にダンディで渋みのある男の人なのだということに驚く。だけど、たぶんそう伝えたら、彼はとても恥ずかしがるだろう。シャイで、礼儀正しくて、誠実。ゴジゲンを支える看板俳優・目次立樹は、そんなふうに映った。
目次立樹は、主宰の松居大悟と共にゴジゲンを築いてきた中心人物であり、6年前の活動休止宣言の引き金を引いた張本人でもある。たぶん話しにくいこともあるだろう。もしかしたら話したくないことまで踏み込んでしまったかもしれない。でも聞いてみたかった。あのとき、彼が何を想っていたのか。そして今、何を考えているのか。彼が辿った迷いと答えは、きっと多くの観客と演劇人の胸に届くはずだ。

グウィネス・パルトローに恋した高校時代。彼女に見合う男になるため、少年は東京を目指した。

小さい頃の目次立樹は、気が弱くて内気な男の子だったという。

「家があまり裕福ではなくて。家族で外食したときも、変にお会計のことが気になって、メニューもなるべく安い方を選んだりしていましたね」

なりたいものなんて特にない。普通に会社員になって、家庭を持って、死んでいく。それで十分だと思っていた。そんな目次に革命が起きるのは、高校2年のとき。目次は、ある女性に恋をした。彼女は、銀幕の中にいた。2001年に封切されたハリウッド映画『愛しのローズマリー』。そのヒロインを演じた、グウィネス・パルトローに恋におちたのだ。美しきブロンドの女優に心奪われた少年は、自分もグウィネス・パルトローに見合う男にならねばならないと誓った。エネルギーありあまる少年の本気は恐ろしい。そこから目次はとにかくいい大学に入って、いい会社に就職しようと、猛勉強に猛勉強を重ねた。

「それまでは校内のパンチラスポットに溜まって、女子のスカートの中を覗いて大はしゃぎしているようなバカでした(笑)。それが、グウィネス・パルトローに恋をしてからは、昼休みもひたすら勉強。英単語帳をめくり続ける毎日を送りました」

成績は見る見る上昇し、名門・一橋大学を狙うまでに。だが、恋に悲劇はつきものだ。そして、悲劇というものは得てして予告なく訪れる。目次のピュアな恋は、ある朝、呆気なく砕け散った。

「センター試験を目前に控えた12月のある朝のことです。学校に行く準備をしてたら、『めざましテレビ』で“グウィネス・パルトロー結婚”っていうニュースが流れて。その瞬間に心がボキッと折れました。今まで僕を支えていたものが一気になくなって。もう何してくれるんだ、と。おかげで翌月のセンター試験はボロボロでした(笑)」

だが、終わる恋があれば始まる恋もある。切り替えが早いのもまた若さの特権だ。その後、デビュー間もない歌手の中島美嘉に恋をした目次は不死鳥のごとく復活。中島美嘉に会いたい一心で、東京の大学を受験。慶應義塾大学への合格を掴み取った。

そう、実に単純でおバカな男の子だったのだ、少年・目次立樹は。

居場所がなかった大学生活。必要とされることが嬉しくて、演劇を続けた。

晴れて故郷の島根から上京した目次だったが、片田舎の少年に、東京、しかも華やかな慶應の学び舎は眩しすぎた。

「最初は友達も全然できませんでした。お昼の時間も一緒に食べる相手がいなくて。だからってひとりで食べてるのを周りに見られるのも嫌で。非常階段とか、立入禁止エリアに忍び込んで、こっそり御飯を食べてました(笑)」

そんな冴えない大学生活の中で、ふと足を踏み入れたのが演劇だった。もともと母親も地元で演劇活動をしているなど、何となく縁はあった。憧れの中島美嘉がドラマで女優デビューしているのを見て、俳優になればいつか共演できるかもしれないという下心も、それなりには。そんな好奇心とかミーハー精神とか、いろんなものを引っさげて覗いた演劇サークルで、目次立樹の俳優人生の幕が上がった。

「最初から演じるのが楽しいとは思っていなかった気がします。ただ、友達も全然できなかった僕にとって、居場所はそこしかなかった。サークルの中には、作品をつくりたい人がたくさんいて、“役者やらない?”“スタッフやらない?”っていろんな人が声をかけてくれた。お前のことが必要なんだと口説かれるのが気持ちよくて続けていたのかもしれないですね」

松居大悟との出会い。劇団入りの決定打は「お前の名前、HPに載っけておくわ」。

そのひとりが、松居大悟だった。かれこれ14年の付き合いになるが、当初から「全然仲良くはなかった」と目次は証言する。先輩から可愛がられやすい松居と、当時、茶髪にロン毛のメンズエッグ風ファッションに身を固め、サークル内で浮きまくっていた目次は、キャラクター的にも好対照。「松居とは結局仲良くならないまま今の今まで来ていますね」と前置きした上で、当時の思い出を聞かせてくれた。

「まだ全然仲良くなかった頃、なぜか松居が僕の家に泊まりに来たんですよ。でも仲良くないから、全然話すことがなくて。気まずい空気のまま時間だけが過ぎていった。で、うちには布団が一組しかなかったから、最終的にひとつの布団に松居とふたりで寝ました(笑)。いまだに何で泊まりに来たのか全然わからない。何がしたかったんでしょうね、あのときの松居は」

そう苦笑する横顔に、14年の歳月がにじむ。ともあれ、松居に誘われ、目次は第1回公演の『かけぬけない球児』に参加。以降、学生団体の中でも注目の存在へと駆け上がる創生期を、松居と共に過ごした。
だが、ゴジゲンが正式に劇団化されたのは、2008年。目次にとっては、大学卒業後のことである。彼は、どのような決意で旗揚げに参加したのだろうか。

「もともと僕は役者になると決めていて、当時から就職活動はしていなかったんですよ。卒業後はどこかの研修所に入って役者の勉強をしようと計画していた矢先に、電話が鳴って。着信を見たら、これは本当に滅多にないことなんですけど、松居からでした。それで、何の用だろうと出てみたら、“俺、今度劇団つくるんだけど、お前の名前、HPに載っけておくわ”って。結局この一言が、松居からの誘いの言葉になりました」

一緒に劇団をやろうでも、お前が必要なんだでも、ない。あたかも既成事実のような誘い方が、松居らしかった。だが、そんな強引なやり口を目次が受け入れたのも、ふたりにしか分かち合うことのできない信頼関係があってこそだ。

「松居だから、というのはあったと思いますね。他の人だったら、たぶん入らなかっただろうし。彼は当時から日陰の人間を対象に作品をつくっていましたけど、僕もそっち側の人間だったので、松居の描く作品に対するシンパシーみたいなものはあった。松居となら何か面白いことができるんじゃないかという気持ちがあったから、やってみようと思ったんでしょうね」

劇団の成長スピードについていけなかった。劣等感に足をとられた暗黒時代。

松居と目次。そして大学の後輩の半田を制作に迎えた3人体制でゴジゲンの歴史は始まった。以降の活躍は、まさに怒濤の一言だ。公演を重ねるごとに動員数が増加。ゴジゲンという面白い劇団があるらしい、という声が小劇場界を賑わせるようになった。が、そんなサクセスストーリーを、目次は冷静に分析する。

「外面はキラキラしているけど、中身は書き割り。張りぼてみたいでした」

狂騒に浮き立つ中、活動規模が大きくなればなるほど、目次は困惑を隠しきれなくなった。

「松居はまず先に劇場を押さえるんです。いつまでにこういうポジションに行きたいから、このサイズの劇場でやろうみたいな感じで、無理矢理にでも大きい劇場を押さえて、それに合わせて自分たちが成長していこうと息巻いていた。ただ、僕としてはその成長スピードに合わせるのは本当に大変で。作品ごとに自分がすり減っていく感はありました」

決して最初からマイペースにやれればいいと思っていたわけではない。旗揚げした以上、ゴジゲンを有名にしたいし、自分だって有名になりたかった。そのモチベーションは、松居も目次も同じだった。

「活動自体、すごいハイペースで、松居にしても身を削って書いているようなところもあった。傍目からは勢いのある団体に見えたかもしれないけど、実態は相当しんどかったですね」

そう盟友を慮った上で、普段言わない本音を短くこぼした。

「正直に言うと、どんどん活躍の場を広げる松居への嫉妬みたいなものもあったのかもしれない。何だろう、嫉妬というか、劣等感ですね。松居のそばにいることで、どんどん自分に対する劣等感が膨らんでいきました」

同じ方向に伸びていたはずの軌道は、少しずつ離れ、やがて完全に別の方向を向くようになった。枝分かれした道は二度と交わらない。気づけば、松居と目次は同じ劇団に身を置きながら、すっかり心が離れていた。

演劇にすべてを捧げる生き方はしたくない。退団宣言、そして農家への転身。

そんなとき、発生したのが東日本大震災だった。未曽有の大災害は、人々の生き方や考え方を一変させた。ずっと奥底に埋もれていた国家の欺瞞や矛盾を露わにし、一人ひとりがどう生きるべきか、大きな問いを突きつけた。目次も、変容する社会のうねりの中で、自らの人生に向き合ったひとりだ。

「演劇にすべてを捧げる生き方はもうやめよう、と。そうではなく、食べることや働くこと、寝ること、すべてが自分の人生であって、その中に演劇があるような、そういう生き方をしたいと思うようになりました。それで、まずは生きる力を育むためにも、自分で食べるものは自分でつくろうと、役者を辞めて農業の道を目指すことに決めたんです」

目次の決断は揺るぎなかった。震災が起きた2011年の終わり、第11回公演『極めてやわらかい道』を最後に、退団を宣言。ゴジゲンは、活動を休止した。

「これでやっと解放される、という想いがあったのは事実です。正直に言うと、惜しむ気持ちはそんなになかったと思う。入ったばかりの東迎(昂史郎)には申し訳なかったですけど、松居はゴジゲンがなくなっても、もう個人で活動していけるだけの力があった。むしろゴジゲンのことをあれこれ気にするよりも、これからの自分はもっとやるべきことがあるんだという時代に対する責任感の方が強かったと思います」

活動休止後、目次は栃木に渡り、1年間、農学校のボランティアスタッフとして働いた。その後、故郷の島根に戻り、農業を営みながら細々と地元の住民と演劇活動に勤しんだ。

「自分の中で理想の生活というものがあったんですよ。演劇は、プロの役者だけのものではないだろう、と。東京にいた頃のように、演劇とそれ以外の自分の生活を線で区切るような生き方から離れたかった。自分で食べるものは自分でつくり、人のためになることや助けになることで収入を得て生活をする。その中に演劇や芸術といった余暇活動があって、全部が自分の人生としてつながっている。そういう生活に憧れていたんですね」

それは演劇を志す者なら、少なからず共感できる望みだった。空白の3年間、目次は松居らと連絡をとることはほとんどなかった。過ぎし日に想いを馳せるより、彼は彼の正義の中で、真摯に生きていたのだ。

ゴジゲンをやりてえんだけど。酔っ払った末にこぼれた本音が、重い扉をこじ開けた。

だが、両者を隔てる扉は一本の電話によってこじ開けられた。深夜3時、突然の着信。液晶に表示されたのは、当時より親交の厚かった善雄善雄の名前。何の気なしに出てみると、すぐに善雄は別の者に代わった。通話口から聞こえてきたのは、盟友・松居大悟の泥酔した声だった。

「もう呂律もまわらないくらいベロベロに酔っていて。そんな中で言うんですよ、“ゴジゲンをやりてえんだけど”って。当時の僕は不眠症で、寝られない夜をどう過ごしていたかというと戯曲を読んでいました。それを聞いた松居が嬉しかったんでしょうね、“まだ演劇やる気あるんじゃねえか”って言って。僕はもう東京で演劇をするつもりなんてなかったけど、あの松居がそんなふうにストレートに自分の想いを口にすることなんてよっぽどのこと。それで、迷いはしたんですけれど、“やるか”って、そう答えちゃったんです」

劇団を旗揚げするときでさえ、「HPに名前を載っけておくわ」と持って回った言い方をした男が、初めて「やろう」と真っ向からぶつかってきた。不器用な松居にとっては、もしかしたら愛を告白するよりも、こっぱずかしい台詞だったかもしれない。だが、それが目次を動かした。重い扉が音を立てて開け放たれたのだ。

しかし、活動再開の狼煙となった第13回公演『ごきげんさマイポレンド』は最初から復活公演と位置づけられていたわけではない。これが復活公演なのか解散公演なのかということは、観客はもちろん松居らにも明確ではなかった。宙ぶらりんの状態から解散という区切りをつけるためのきっかけにもなり得たし、事実、目次も「これっきり」という緊褌一番の覚悟で稽古に臨んでいた。

それが、最終的に未来へとつながる復活公演へと決定づけられたのも、ゴジゲンらしい計らいがあったからだ。

「千秋楽前日、目次立樹を囲む会というアフターイベントが組まれていたんですよ。僕は何にも内容を知らされてなくて、目隠しにヘッドフォンをつけたまま連れ出された。目を開けたら舞台上で、四方をお客さんに取り囲まれた状態。そこで“お前はこの先演劇を続けるのか”って尋問を受けたわけです。これだけお客さんが見てる前で、ノーなんて言えるわけないじゃないですか。それで、“ただし、農閑期にしてくれよ”って条件つきでオッケーしたんです」

あるべき理想を手放したとき、楽になれた。復活公演を経て気づいた、心の変化。

だが、了承したのは単にその場の雰囲気に流されて、というわけでもない。目次は、久しぶりに帰ってきたゴジゲンの稽古場で、つくる喜びを再確認した。

「すごく楽しかったんですよね。『ごきげんさマイポレンド』は全部松居が書くというわけではなく、みんながこの3年間のエピソードをもとに台本を書いて、それを演出するっていうスタイルで。休止前のように、ストイックに身を削りながら高みを目指して頑張るっていう感じじゃなく、ただただ本当に自分たちが楽しいと思うことを、楽しく創作できた。だからすごく居心地が良かったんです」

それは、故郷の島根で夜な夜なひとり戯曲を書き、読みふける生活では味わえない類の楽しさだった。

「結局、僕は島根にいるときも心から満たされているわけではなかったんですよ。傍からは、それなりに自分の信念があって進んでいるふうに見えたかもしれない。でも、自分の中ではあるべき理想に凝り固まりすぎて、精神的に辛かった。『ごきげんさマイポレンド』は、そういう自分の中で勝手に強く握りしめすぎていたものを手放すための作品でもあったんです」

そこから農閑期の冬のみ東京に身を寄せ、劇団活動に取り組んだ。そして昨年より再び東京に拠点を移し、本格的に役者業を再開させている。名実ともに「俳優・目次立樹」が帰ってきたのだ。今の心境を、目次はこう述べる。

「前よりはずっと楽になりました。ずっとこうあるべきだってものにとらわれて頭でっかちになってたから、今はそうじゃない分、随分楽です」

番外公演『なんかすごいSF的なやつ』では演出を手がけ、2017年8月に上演されたto R mansion『にんぎょひめ』では脚本を担当した。活動の場が多彩に広がる一方で、しかし目次は「今も演劇をやりたいってわけじゃないかもしれない」と本音を明かす。

「演劇をやりたいというより、必要とされていることに対して、自分にできることがあるなら力を傾ける、というのが今の僕のスタンス。演劇で僕の力が必要ならもちろんやりますし、それがコラムでも何でも縛られない。変に気張りすぎずに生きられるようになったんだと思います。ただ、逆に言うと、演劇が僕のすべてだというふうには今も答えられない。そんな感じです、僕にとっての演劇というものは」

ゴジゲンがなければ、今ここにいないかもしれない。ゴジゲンでの創作活動こそが、目次立樹の原動力。

そこで改めてゴジゲンに対する想いを、目次に訊いてみた。すると目次は「恥ずかしいことを言っちゃいそうですね」と照れつつ、丁寧に言葉を選んで、つないでいった。

「今、『くれなずめ』の稽古をしているところなんですけど、本当いいですね。結構理想的なメンバーと創作環境なんじゃないかと思います。僕にとってゴジゲンはホーム。演劇をしている理由の大半はゴジゲンが占めているし、ゴジゲンがなければ、今ここにいないかもしれない。この1年、東京に来て本格的に演劇活動している理由も、やっぱりゴジゲンがあるからだと思います」

そう語る目次の表情がとても幸せそうで、最後にもうひとつだけ恥ずかしい質問をしてみた。

――目次立樹にとって、松居大悟とはどんな存在ですか。すると、目次は盛大に照れ笑いをして、少し答えを躊躇しながら、口を開いた。

「何かふたりいるんですね、僕の中で、松居大悟が。テレビや雑誌で出てくる松居っていうのは、やっぱり僕の知ってる彼とは全然違いますよね。そういう松居を見て、休止前だったらクソって思ったのかもしれない。でも今は素直に嬉しいです。いろんなところで活躍している彼を見るのは」

そして、目次はこう言った。

「たぶんこの先もどんどん日本に限らず世界とかに行っちゃうクリエイターだと思います、外側の松居くんは。けど、ゴジゲンの松居は友達です。もちろん創作仲間ではあるけれど、それより前に僕の同級生であり、友達。ずっと友達だと思います」

そう締め括って、「恥ずかしい」と顔を赤らめた。

劇団は、難しい。演劇を続けることは、とてもとても難しい。きっとたくさんの劇団が、壁とか柵とかよくわからないものにぶつかって、続けることが困難になった。

でも、ゴジゲンは、少なくとも今、2017年10月現在、ちゃんと活動をしていて、目の前の公演に向かって汗を流して笑っている。松居大悟がいて、目次立樹がいて、愛すべき仲間たちがいて、ゴジゲンがある。それはとてもハッピーなニュースだ。大げさではなく奇跡みたいな出来事だ。そんないとしい奇跡を噛みしめながら、観客はひそかに開幕のときを待つ。大好きな友達と久しぶりに会う日のような胸の高鳴りを秘めて、劇場の階段を駆け上がるのだ。

取材・文・撮影:横川良明   画像提供:ゴジゲン   舞台写真撮影:村田麻由美

プロフィール

目次 立樹(めつぎ・りっき)

慶應義塾大学入学とともに演劇サークルに入団し、松居大悟とともに劇団ゴジゲンを旗揚げ。舞台上では圧倒的な存在感を放つ、松居作品には欠かせない存在。2011年からのゴジゲン活動休止期間の3年間は栃木での農業修行を経て、地元・島根県にて俳優、農家、ワークショップデザイナー、児童クラブの先生として活動の場を広げる。2014年のゴジゲン再結成を機に、本格的に東京での俳優としての活動を再開する。近年の主な出演作に、多摩ニュータウン×演劇プロジェクト『たまたま』、劇団献身『幕張の憶測』、北九州芸術劇場プロデュース『しなやか見渡す穴は森は雨』、『トリスタンとイゾルデ』などがある。