2016.12.23
ゲキバカ史上最も下手くそだった男が、「看板俳優」となるまでの成長記。【ゲキバカ 鈴木ハルニ】

下手くそだった新人時代。柿ノ木さんにいちばん叱られたのは僕だと思う。
舞台上では強烈かつ豪快なキャラクターで、座組みの起爆剤的役割を果たすことの多い鈴木ハルニ。その実力は外部でも高い評価を受けており、箱庭円舞曲、リジッター企画など客演も多数。2016年7月には舞台『Being at home with Claude〜クロードと一緒に〜』で新国立劇場の板の上にも立った。
しかし、当の本人は「とにかく下手くそだった」と新人時代の自分を述懐する。
「入団当初のスキルだけで言えば、ゲキバカ史上最も下手くそな劇団員は僕。演出の柿ノ木(タケヲ)さんにいちばん叱られたのも、僕じゃないかな」
照れ臭そうに、そう笑った。ゲキバカへの入団は、大学1年の頃。まだ前身の劇団コーヒー牛乳だった時代の話だ。それまで演劇は未経験。というよりも、日本へ帰ってくるのも実に6年ぶりのことだった。
アメリカの肥沃な大地で吸収した日本のカルチャー。日芸進学のため6年ぶりの帰国。
鈴木ハルニは、両親の仕事の都合で中学1年の終わりから高校卒業までアメリカ・シカゴで過ごした。見る人を安心させるあのビッグスマイルは、ドデカいシカゴの青空の下で育まれたのだ。
「多感なティーンエイジャーをアメリカで過ごせたというのは、今思えば貴重な経験でしたね。そもそもアメリカに行かなければ、僕はお芝居そのものもやっていなかった気がするんですよ」
鈴木ハルニのアメリカンライフは、意外にも日本のカルチャー一色だった。野島伸司の『未成年』、三谷幸喜の『王様のレストラン』。当時のヒットドラマはほぼご多分に漏れず夢中になった。高校時代は、BOØWYやTHE BLUE HEARTSのコピーバンドに熱中。過ごした場所こそワールドワイドだが、ある意味で日本で暮らす高校生より日本人らしい青春期を送った。
「この話をすると、“お前、絶対アメリカ行ってなかっただろ”ってよくツッコまれます(笑)。たぶんないものねだりだと思うんですけど、日本にいたら洋楽とかアメリカ文化を貪欲に吸収したい時期ってあるじゃないですか。その逆で、あっちいたからこそすっごい日本のことに興味を持っていたんですよね。日本のストリート雑誌とかもよく読んでいたし(笑)」
バンドにハマッたハルニは、高校を辞めて音楽活動に専念すると言い出した。当然、周囲は大反対。せめて大学くらいには行った方が良いと諭され、進路について頭を悩ませることとなった。
「大学に行くなら日本で、というのは決めていました。と言っても経済学部や文学部は何かピンと来ない。あの頃の僕はなぜか大学の学部や専攻がそのまま将来の仕事に直結すると思いこんでいたんです。音楽は趣味にしようと決めたから除外。当時は写真も趣味だったんですけど、独学で何となく知識はあったし、どうせならまったく知らないことを勉強したかった。その結果、残った選択肢が日芸(日本大学芸術学部)の演劇学科だったんです」
遠いシカゴの地で大量摂取した日本のテレビドラマが何か影響を及ぼしたのだろうか。それまで演劇的素養は一切なかったにもかかわらず、鈴木ハルニは突如俳優の道に覚醒。めでたく入試にも合格し、日本へ帰国。芝居を仕事にするのだと意気込み、日芸の門を叩いた。
軽い興味で受けたワークショップ。そのまま気づけば劇団員に。
「入学して最初のゴールデンウィークだったかな。大学の先輩が座長をやっている劇団がワークショップをやるから来てみたらって誘われたんです。と言っても、当時の僕は素人ですから、ワークショップが何かもわからないレベル。下手(しもて)と上手(かみて)も知らないような状態だったんで、最初は行かなかったんですよ。そしたら、ワークショップを受けてきたクラスメイトが面白かったって言ってて。で、次の回から僕も参加してみることにしました。その劇団っていうのが、劇団コーヒー牛乳。先にワークショップを受けてきた同級生が、西川(康太郎)と石黒(圭一郎)です」
現在につながるパズルのピースが、そこで初めていくつか揃った。石黒圭一郎こそ2015年に惜しまれつつも俳優業を引退したが、西川康太郎は今もゲキバカを支える同期。3人は、学窓を共にした同級生だった。
「何回かワークショップをやった後に公演をやるからって話が出て、それに僕も出させてもらいました。それが、僕の初舞台です。台詞も3つくらいしかない端役なんですけどね(笑)」
その後、劇団コーヒー牛乳は正式に劇団化。ハルニもほぼ巻きこまれるかたちで劇団入りした。
「だから後輩たちと僕らで決定的に何が違うと言うと、別に劇団コーヒー牛乳の芝居が好きで入ったわけじゃないということです。何せ劇団コーヒー牛乳の芝居を一度も外から観たことがないまま劇団員になっちゃったので(笑)」
日陰の劇団員人生。活躍する同期を尻目に、胸をざわつかせる焦りと劣等感。
実に15年以上にもわたる劇団員人生の第一幕は、そんな思いがけない始まりだった。劇団コーヒー牛乳は活発に活動を展開していったが、当のハルニは決して常にスポットライトを浴びる場所にいたわけではない。むしろ長く日陰の存在でいたことが、現在の鈴木ハルニを形成する重要な要素となっている。
「定期的に公演はあるものの、僕は下手くそで何もできないので、ほとんど喋らないような役ばっかり。その上、怒られるし、仕込みは大変だし、バラシはもっと大変だし。なのに別に出番はないし(笑)。今思えば、全然楽しくない時期がひたすら続きました」
周りと比べても、とにかく下手くそだったという。滑舌練習をしていると、作・演出の柿ノ木タケヲから「お前は何行なら言えるんだ」と呆れられた。同期で入団した西川や石黒はすでにメインの役を張り、先輩とも対等に渡り合っている。自分だけが、いつまでも下手くそのまま。朗らかな笑顔の下に、徐々に焦りと劣等感が膨らみはじめていた。
「楽しくなかったと言いましたけど、当時はそうはっきり感じていたわけではなかった気がします。辛かったけど、それが当たり前だと思っていた。だって、芝居は自分にとって仕事だから。“仕事=辛いもの”っていう刷りこみがなぜかあったんです。だから、辛くても仕方ないと割り切っていた。ただ、大学卒業を前に、自分の中で役者業を続けていく自信が持てなくて、初めて劇団を辞めるという選択が脳裏に浮かびました」
勇気を振り絞り勝ち取った初の大役。そこから急転直下の退団宣言。
そこでハルニがとった行動が、柿ノ木への直談判だった。次回公演は『コーヒーと牛乳』。2本立てのうちの1篇のメインの役を自分にやらせてほしいと直訴したのだ。それまでハルニにとって、柿ノ木タケヲは恐怖こそあれ、とても気軽に話しかけられるような相手ではなかった。それでも、何としてでも役を掴みたかった。もう同期が前に出ているのを、舞台袖で羨ましく見つめるだけの毎日は嫌だった。
「とにかく西川と石黒に追いつきたかった。それが辛くても辞めなかった一番の理由だと思います。何とかほしかった役ももらえて、初めてメインを張れて、自分でもすごく自信になって…。だから、ですかね。その公演を最後に、劇団を辞めることにしました」
それは、突然の退団宣言だった。劇団員は、一様に反対した。特に同期の西川と石黒は、何とか説得を試みた。中には涙を流す者もいた。下手くそだったかもしれないが、鈴木ハルニは間違いなく周囲から愛される存在だった。マスコットキャラクターのような彼が、突然劇団を離れてしまう。その事実を易々と受け入れられることなどできなかった。
しかし、本人の決意は固かった。23歳、大学卒業と共に、ハルニは劇団コーヒー牛乳でのキャリアに自ら終止符を打った。
退団から1年。初めて客席で公演を観たとき、芝居がやりたいと思った。
それから1年、ハルニは普通の毎日を送った。就職はしなかった。バイトで勤め先を見つけ、仕事に汗を流す日々。あんなに演劇一色だった大学生活が、まるで遠い出来事のようだった。
それでも古巣の公演には足を運んだ。喧嘩別れをしたわけではない。青春の仲間がつくるものはこの目で見ておきたかった。演目は『大江戸ロンパールーム』。王子小劇場の客席に着き、ハルニは初めて自劇団の舞台を外側から観る機会に恵まれた。
「それが面白かったんですよ。よく考えたら今まで僕は一度もコーヒー牛乳の芝居を客席から観たことがなかったんだなって気づいて。みんなが芝居をやっているのを観たら、恥ずかしい話ですけど、やっぱり自分もやりたくなっちゃったんです」
あれだけ大騒動を起こして飛び出した場所だ。どの面を下げて戻れると言うのだろうか。しかし、そんな葛藤も沸騰する演劇欲の前では風前の塵のようなものだ。ハルニは、勇気を出して柿ノ木に復帰を申し出た。すると、柿ノ木はこう言った――「今度、いつもの喫茶店で劇団ミーティングをやるから、先に来て席に着いていろ」と。
「それで、みんながやってきたところを何事もなかったように挨拶して。柿ノ木さんから“新劇団員です”って紹介してもらいました(笑)。カッコ悪いし、何やってんだって話ですよね。みんなからも“あのときの涙を返せ”と言われました(笑)」
わずか1年。期間にすれば短いブランクかもしれない。けれど本人にとっては大きな意味を持った空白期間を経て、鈴木ハルニは再び劇団に帰ってきた。だが、それは単なるカムバックではない。一度辞めて戻ってきた以上は、もう今までの自分ではいられないことを改めて突きつけられた。
「柿ノ木さんからは“戻るのはいいけど、お前はタッパもないし、運動神経もズバ抜けていいわけじゃないし、ルックスも良くないから、これからはもっと上手くならないとダメだぞ”って言われました。今までダメ出しは何度ももらってきたけれど、そういう叱咤激励みたいな言葉をもらったのは、それが初めて。頑張って上手くならないとヤバいぞって、背筋が伸びる思いでしたね」
あの柿ノ木が自分の演技を真似している。初めて知った自信と演劇の楽しさ。
それからと言うもの鈴木ハルニは以前よりも精力的に稽古に励むようになった。まずは基礎の見直しからスタート。苦手の滑舌はフィルムケースをくわえて発声するという練習法で克服した。恐怖の対象でしかなかった柿ノ木に自らコミュニケーションをとるようになったのも、復帰以降のことだ。
「変な話ですけど、それまでは柿ノ木さんに怒られたくない一心で、稽古場でもとにかく目立たないようにしていました。でも、それからはたとえ怒られても、なぜ怒られているのか考えるようになったし、わからなければちゃんと聞くようになった。そこはすごく大きな変化だと思います」
柿ノ木との関係性で象徴的なエピソードがある。2007年、代表作『0号』初演でのことだ。ハルニは本役と合わせて、稽古場で演出をつける柿ノ木自身の代役を任された。役者・柿ノ木タケヲは、ハルニにとってえも言われぬ面白さを持った人物。稽古場の中でとは言え、その代役を担うことは重大だった。
いくら知恵を絞っても、自分なんかが思いつくことはどれもお見通しに違いない。そう腹を括ったハルニは、舞台上で思いつくまま自由奔放に動き回った。隙あらばアドリブで台詞を入れ、台詞のない間は進行とはまるで関係のない動きで笑いをとった。
すると、いざ柿ノ木自身が役についたとき、それまでハルニがやっていたギャグや動きを随所に取り入れたのだ。あの柿ノ木さんが、自分のやったことを真似している。その感覚は、今まで味わったどの快感とも違うものだった。
「すごく嬉しかったし自信にもなった。そこから柿ノ木さんとの精神的な距離も近づいたような気がします。思えばずっと僕は舞台上から柿ノ木さんの顔色を窺っていたんですよね。台本に書いてあるからこうしなくちゃいけないとか余計なことばっかり考えて、それが自分の手枷足枷になっていた。あのとき、ようやくその枷がちょっとだけ外れたような気がします」
劇団コーヒー牛乳最終公演。主演を飾ったのは、史上最も下手くそな僕だった。
そこから下手くそだったはずのハルニは急成長を遂げた。堂々主演を飾ったのは、28歳のとき。09年、第24回公演『ジプシー』だ。ハルニはここで人間と妖精の間に生まれたブスの女の子・ブスコーを演じた。頭はスキンヘッドで、顔はまるでオバQ。だけど心はとってもピュアで、お姫様に憧れている。そんなインパクト大のヒロインを、ハルニは文字通り体当たりで演じ切った。
「実は、それが劇団コーヒー牛乳の最終公演だったんです。最終公演が、僕の初主演舞台。そう考えると何か感慨深いですね」
劇団コーヒー牛乳としての活動期間は12年間。そのうちの大半をハルニは劇団員として過ごした。クラスの中のひとりというモブキャラから喋ることさえないアンドロイド、はたまたもはや人外の猿まで、演じたキャラクターは実に幅広い。同期の西川と石黒が次々と大役を射止め、看板俳優として脚光を浴びるのとは対照的に、ずっと脇役が定位置だった。その自分が、最終公演という大舞台でセンターにいる。カーテンコールでキャストの真ん中に立ち、挨拶をしている。それは、何だか夢を見ているような光景だった。
劇団員はみんなライバル。負けたくない気持ちが、自分をここまで連れてきてくれた。
「こう振り返ってみると、僕の役者としての強みは、そんなふうにいろんな役を経験できたことかもしれません。ずっとセンターにいると、どうしても似通った役になりがち。いろんな役をやらせてもらえたおかげで、役者としての幅は広がったと思います」
今や鈴木ハルニは間違いなくゲキバカの看板俳優だ。いや、そもそもゲキバカには看板俳優なんてものは存在しないのかもしれない。一人ひとりがピンを張れる、個性と実力を持った猛者ばかり。だからゲキバカの芝居は、人を熱狂させるのだ。
「僕の人生の何よりの自慢は、人に恵まれたこと。ここまでやってこられたのも、西川と石黒という同期のふたりがライバルとして目の前を走ってくれていたから。負けたくなくて、必死になって追いつこうと踏ん張れた。今でも劇団員は全員ライバルです。仲は良いけど、負けたくはない。だから、できればみんなには売れてほしくないです(笑)」
そう笑ってインタビューを終えた。正真正銘の大根役者だった鈴木ハルニは、苦渋を味わい尽くして、大きくなった。見栄や劣等感に苛まされながら、それでも負けたくない一心で何と食らいついてきた。身長162cmの小さな身体に秘められているのは、どんなときも決してあきらめることのなかった努力と根性。あのビッグスマイルに誰もが惹かれる理由は、もしかしたらそんな人間臭さにあるのかもしれない。
取材・文・撮影:横川良明 画像提供:鈴木ハルニ
プロフィール

- 鈴木 ハルニ(すずき・はるに)
1981年3月24日生まれ。東京都出身。日本大学芸術学部演劇学科に入学後、1年生時に劇団コーヒー牛乳(現ゲキバカ)のワークショップに参加、そのままワークショップ公演を経て、劇団員となる。以降、ほぼすべての劇団本公演に出演。また、箱庭円舞曲『あなただけ元気』、Lecture-Spectacle『Being at home with Claude~クロードと一緒に~』、リジッター企画『もしも、シ ~とある日の反射~』、増田貴久主演『フレンド−今夜此処での一と殷盛り−』など外部作品でも精力的に活動。
取材の依頼をかけたとき、劇団サイドには「看板役者さんにご登場いただければ」とお願いをした。そのオーダーを受けて、劇団内では看板役者の座をめぐり争奪戦(笑)が起きたという。熾烈なバトルの結果、やってきたのはこの人、鈴木ハルニ。舞台上で見るよりずっと小柄で、舞台上で見るより一層にこやかなスマイルを引っさげ現れた看板俳優は、さてどんな話を聞かせてくれるのだろうか。