2016.08.25
ただ笑わせたくて舞台に立った。生粋のコメディ俳優が行き着いた、演劇をめぐる旅の始まり。【アガリスクエンターテイメント 塩原俊之】

人を笑わせるのが好き。笑いと球技に燃えたティーンエイジ。
18歳までの塩原俊之の人生に、演劇はただの一文字も登場しない。代わってその年表を埋めるのが、野球やサッカーといった男子定番の球技種目と、お笑いだ。兄の影響を受け、ギャグ系の漫画やアニメの洗礼を浴びた。バイブルは、『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』『行け!稲中卓球部』『幕張』。下品でシュールなナンセンスギャグ漫画が少年心をくすぐった。テレビの世界なら『ダウンタウンのごっつええ感じ』。ある一定の世代を直撃したモンスター番組に塩原も多分に漏れず熱狂した。得意だったのは、野球選手のモノマネ。野球部では、それで先輩たちを笑わせ、「塩原は野球は下手だけどモノマネは上手い」と可愛がられた。
「笑いに走ったのは、モテたかったからというものありますね。でも、下ネタも平気でぶっこむからクラスの女子はドン引き(笑)。中学のとき、先生から“塩原が女子と話しているのを見たことない”と指摘されたときは、さすがに少しヘコみました(笑)」
明るい性格で友人にも恵まれたが、スクールカーストの最上位というわけではなかった。むしろそうした“ウェーイ系”には、ある種、アンチ精神さえあった。彼らの好むポピュラーな笑いを、塩原は好みとしなかった。むしろあんなやつらがモテるなんてこの世の中は間違っていると歪んだ反発心を肥大化させ、サブカル寄りのちょっと尖ったカルチャーに傾倒するようになっていった。
「かと言って芸人になりたいと思ったことはないんですよね。たぶん身の程を知ってたんだと思う。友達を笑わせるのと不特定多数を笑わせるのは全然違う。たとえば自分が全校生徒の前で何かをやっても、別にウケないだろなっていう醒めた気持ちがどこかにあったんでしょうね(笑)」
好きだったスポーツも、中学に上がる頃には自分の才能の限界を知った。かと言って、平々凡々なサラリーマン生活に身を置くことも本意ではない。何か他の人が思いつかないようなニッチな路線で人気者になれたら。そんな淡い夢を空費しながら、塩原の高校生活は過ぎていった。
『ナイゲン』との出会い。演劇素人から、いきなり劇団員へ。
アガリスクエンターテイメント主宰・冨坂友との出会いは、大学進学からしばらく経ってのことだ。共通の知人を介しての飲み会で冨坂と知り合った塩原は、その場で初対面にもかかわらず「今度公演をやるので出てみないか」と勧誘された。当時、冨坂は劇団を旗揚げして間もなくのこと。一方、塩原は演劇の経験もなければ、観たこともない普通の大学生だった。あまりにも唐突な誘い。受ける方がどうかしていた。とても自分には務まらない。そう断ると、すぐさま「じゃあ、ぜひ公演を観に来てください」と迫られた。近所だし、観るだけなら…。おずおずと受け取ったフライヤーにはこう書かれていた、アガリスクエンターテイメント第3回公演『ナイゲン』と。
本番当日、塩原は会場だった市川市勤労福祉センターの会議室を訪れた。チケット代金は、わずか200円。平台も何もないがらんどうの部屋にしつらえた即席舞台。照明器具のハロゲン灯はガムテープでくっつけってあったのを、なぜか今もよく覚えている。駆け出しの劇団らしい手づくり感満載の場内で、塩原は上演のときを待った。
「ぶっちゃけ感想はそんなに覚えてないんですよ。めちゃくちゃ面白かったかと言えば、別にそんなわけでもなかったような(笑)。ただ何かが引っかかった。それで、自分もやってみたいなと思って、次の公演から参加することにしたんです」
大ゴケした初舞台。スベりまくった経験が、コメディ俳優の礎を築いた。
それは何も清水の舞台から飛び降りるといったような大層な決断ではなかった。興味半分。言うなればちょっとした趣味感覚のスタートだった。初舞台となった第4回公演『フールエイリアンズ』はいろんな書き手のオムニバスを集めた短編集。コントに近いような内容だったのも気安さの一因だったかもしれない。
しかし、そんな軽いノリで上がった初舞台で、塩原は見事にスベり倒した。ぼんやりと抱いていた、そこそこウケるんじゃないかという思惑は大きく外れ、自分のことを知らない人間を笑わせる難しさを身をもって痛感した。
だが、この大ゴケが、逆に塩原の本気スイッチをプッシュした。できないから、やってみたい。難しいから、上手くなりたい。何となく始めた演劇活動に、塩原は次第にのめりこむようになっていった。
「大学3年頃から演劇を始めて、どんどんハマッていくのと引き換えに、学校には全然行かなくなりました。もう絶対ヤバいパターンですね(笑)。結局、4年のときに大学は中退。もう両親には頭上がらないですわ。今思えばリスキーだけど、あの頃はなぜか全然ためらいはなかったんです」
昔から不特定多数を笑わせることができるのは、一部の才能ある人間だけだと達観視しているところがあった。自分が、その一部の人間ではないという諦念もあった。そんな悟りに逆らうように、塩原は舞台に立ち続けた。
舞台に上がれば、思うようにいかないことだらけだ。ここで必ず笑いをとってみせるという渾身のポイントで外すこともしょっちゅうあった。スベれば、頭が真っ白になる。その恐怖と重圧は、容易く制御できるものではない。あまりにスベりすぎて、舞台上で本気でキレそうになったこともあった。それでもやってこられたのは、スベり倒した痛々しい経験の中に、練りに練り上げた笑いのスロットがスリーセブンに入る絶頂を、少なからず味わってきたからだ。塩原にとって、そんな最初のジャックポットが、初の東京進出となったシアターグリーン学生芸術祭だった。
思い通りに笑いをとれる快感。広がる演劇への興味と探求心。
「ずっと千葉でやってきた僕たちが初めて東京の小劇場シーンにふれたのが、シアターグリーン学生芸術祭。普段から東京の小劇場を観慣れているお客さんたちが、僕たちのお芝居を観て笑ってくれて。まあ、今改めて見てみると、ややウケ程度なんですけど(笑)、あのときはすごく手ごたえを感じたんですよ」
さらに、劇団員以外の盟友もできた。範宙遊泳、おぼんろなど現在も活躍する劇団をはじめ、多数の団体が出場した。その中でも一際仲良くなったのが、残念ながら現在は解散してしまった国道五十八号戦線(通称ごっぱち)。以降、現在に至るまで飲み仲間として、芝居仲間として、親交を深める間柄だ。ずっと千葉で細々と演劇活動をしていた塩原にとって、こうしたコミュニティの広がりが、演劇への想いを募らせるきっかけとなった。
「千葉で同い年くらいで演劇をやっている人に会うことなんてほとんどなかったから、東京にはこんなにも演劇人がいるんだって感動しました。どの劇団もすごく面白かったし、その上で自分が本当にやりたいことをやれる場所はアガリスクエンターテイメントなんだなってことも再認識できた。このシアターグリーン学生芸術祭が、僕の転機になりました」
そこからアガリスクエンターテイメントは東京進出を果たし、劇団活動も本格化。一歩ずつ前進していく中で、少しずつ劇団員の間で齟齬が生まれはじめた。職業として劇団をやっていきたいと考えている者。あくまで趣味として続けたい者。この決定的な差は徐々に両者の溝を深めた。いずれどこかできちんと決断をくださなければいけない。そう誰しもが考えたはじめた矢先、想像もしていなかった出来事が発生する。2011年3月11月、東日本大震災だ。
震災発生。僕たちはこのまま演劇を続けるべきか、否か。
東日本大震災が発生したのは、金曜日。その翌週末からアガリスクエンターテイメントは新作公演『大空襲イヴ』を控えていた。本番まで残すところ1週間という局面で、日本中が絶望と混乱に打ちひしがれた。都内の交通網は完全に麻痺。発生当夜は帰宅難民が溢れ、週明けからも一部で出社制限がかかるなど、都市機能は停止状態に陥った。そんな中、演劇なんてやって誰が観るのか。公演中止をめぐって劇団内で意見が真っ二つに分かれた。緊急会議が開かれたのは、震災発生から3日後の月曜日。下北沢の稽古場に集合した一同は、各々の意見をぶつけ合った。
その中で塩原はと言うと、揺れていた。仲間の中には家族が被災して連絡がとれない者もいた。どちらの意見も正しいし、理解できる。時には口論になるほど紛糾する議論を眺めながら、塩原が最後に出した結論は、公演を続行することだった。
「ちょうどそのときに上演予定だったお芝居が、東京大空襲前日を舞台にしたシチュエーションコメディだったんですよ。戦争という非常事態下でも人は自分の手の届く範囲のパーソナルなことに悩み、笑っていられるのかを描いた“NO WAR! 戦争どころじゃない!”というお話。震災という未曽有の大災害が直撃したことで、僕らは本当の意味でこのテーマの是非を問わなければならなくなったんです。もし僕たちが上演中止を選んだら、この作品で言っていることを全部否定してしまうことになる。だから、絶対に止めるわけにはいなかった。そして何よりも、こんな状況下だからこそ、人に笑ってほしい、コメディを届けたい、と思いました」
震災から1週間。一生忘れられない初日の幕が上がった。
だが、劇団全体として一枚岩になることはできなかった。公演の続行は決まったものの、もうこの状況では続けられないと、この公演から離脱を宣言する者が続出した。それでも、塩原たちはもう迷うことはなかった。
会場だった新宿シアター・ミラクルの支配人(当時)・星英一は、アガリスクエンターテイメントの決断を応援。稽古場や公共施設がまともに使用できない状況を鑑み、公演までの間、劇場を稽古場代わりに開放してくれた。
塩原たちも公演続行を観客に告知した上で、安全面を考慮し、決して劇場に来ることを推奨はしなかった。予約の変更や取消は無条件にすべて受け入れ、自宅鑑賞ができるようUstreamでの全公演中継も行った。さらに緊急事態に備え、パネルの建てこみは取りやめ、小道具はすべて見立て芝居、客席への照明器具の吊りこみも控えた。衣裳も、各々が用意した稽古着を着用し、たすきに役名を書いただけの簡易版。それは物資が困窮している非常事態下でも芝居はできるんだという彼らなりのメッセージだった。
「結局、予約していたお客さんの6割くらいはキャンセルになりました。それでも、中には“公演やるの?”ってわざわざ電話をしてくれた友人もいて。予定通り上演することを伝えたら、“良かった。楽しみにしてるよ”と言ってくれた。こんなときだからこそ求められているものもあるんだって。エンターテイメントの、コメディの可能性を改めて発見したし、やるからには絶対に笑わせてやるぞ、と一層意志も確かになりました」
結局、この公演をきっかけに十数人いた劇団員は、半分以上いなくなった。しかし、この決別が彼らに覚悟をもたらした。自分たちは必ず演劇の世界で食べていく。保留にし続けた決意を固めたアガリスクエンターテイメントは、以降、怒濤の快進撃を繰り広げていった。
笑いがなくても得られる充足感がある。今迎える次なるターニングポイント。
コメディ俳優・塩原は、役者としてコメディを演じる楽しさをこう語る。
「笑わせれば笑わせるほどお客さんは作品や登場人物に対して心を開いてくれるし、解釈も広がる。結果、作品の飛距離が伸びて、僕たちが考えてもいなかったようなメッセージをお客さんが生みだしてくれる。そこがコメディの快感です。それにやっぱり目の前でウケるのは理屈抜きで気持ちいい。言葉は悪いけど、シャブです、完全に(笑)」
一方で、これまで一貫してコメディ作品にこだわってきたが、少しずつ俳優としての変化も生まれてきていると心境を明かす。
「コメディで得る充足感と、真面目なお芝居で得る充足感。前までずっとこのふたつはトレードオフだと思ってたんですよ。どっちかをやったら、もう片方は手に入らないって。でも最近、そうじゃないことに気づきはじめた。その両方にかぶっている接点があって、そのもっと先に僕が本当に語りたい演劇があるんじゃないかなって考えるようになりました」
きっかけは、先日出演したらまのだの『終わってないし』だった。その中の一編、『天気予報を見ない派』に塩原は客演した。ホームと違い、一切笑いのない25分のふたり芝居。そこで塩原は形容しがたい感覚に包まれた。
「だからこれからの僕の俳優人生は、そこを探し続ける旅になるんじゃないかって。コメディの部分と、それ以外の部分。その接点の先にあるものが何なのか。まだ全然わからないんですけどね」
日本を代表する喜劇役者・藤山寛美は、かつてこう言った。芸は水に文字を書くようなもの、書き続けないと見えない、と。同じく喜劇を愛する塩原の模索も、水に文字を書くようなものなのかもしれない。ならば、とくと見ていよう。この東京の小劇場で、「コメディ俳優」と「俳優」のはざまで、どんな答えを見つけるのか。彼が水に書いたその模様に、私たちは大いに笑い、そしてほろりと涙を流すのかもしれない。
取材・文・撮影:横川良明 画像提供:塩原俊之
プロフィール

- 塩原 俊之(しおばら・としゆき)
1984年6月12日生まれ。千葉県出身。大学在学中に地元で活動しているアガリスクエンターテイメントの存在を知り、第4回公演より参加。以降は劇団の主力として全作品に出演し、大体の作品で中心的な役を担う。体格を生かしたパワーのある演技と、観客が少ない&ネタがそんなに面白くない時代に培った「観客の空気を読んでツボを押す力」を駆使し、喜劇役者として活動中。
Twitterのプロフィール欄の肩書きは、「コメディ俳優」。単なる「俳優」ではなく、頭に「コメディ」をつけずにはいられなかった。そこに、この男の矜持がある。
塩原俊之。シチュエーションコメディを得意とするアガリスクエンターテイメントの最年長であり、多くの作品で主要な役を務める看板俳優だ。目尻の笑いじわが、その印象をぐっと柔らかいものにする。語り口にも棘がなく、親しみやすい。どこかナイーブな繊細肌や、浮世離れした変わり者が多い小劇場の世界で、この等身大の飾らなさは、ある種、貴重とも言える。
だが、ひとたび笑いについて語り出せば言葉は尽きない。日夜、笑いのメカニズムを分析するコメディオタク。そう、間違いなくこの人はコメディ俳優そのものなのである。